TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像ー (163) 明石 謙さんと「リハビリテーション」と垣内優芳さん

 (163) 私の「医人」たちの肖像ー 明石 謙さんと「リハビリテーション

 

 シリーズ・ブログ<私の「医人」たちの肖像>に、明石 謙先生をとりあげることにした。私が社内の人事異動で医学雑誌部に異動した際に管轄雑誌の一つに「総合リハビリテーション」があった。1983(昭和58)年5月初めだった。
 明石謙先生は、川崎医科大学教授(リハビリテーション)であった。リハビリテーションは、その頃の日本の医学で新しい領域であった。リハビリテーションは、英語で "Rehabilitation "  であるから直訳すれば「再び生きる」という意味で、「人間復興医学」であるが、適切な日本語訳ができずに「リハビリテーション」というカタカナ語が定着してきたのだろう。「リハビリテーション」は、失われた身体の機能をなんとか復活させて元通りと言えないまでも、日常の生活ができるようにしていこうとする医学の一領域であろう。これまで存在しなかった医学領域であるので、欧米でも整形外科、脳神経外科神経内科、等々の領域の医師が失われた機能の復活を目指してリハビリエーションという領域に進出あるいは異動してきたのだった。日本においても同様で、整形外科あるいは脳神経外、神経内科でスタートした医師がリハビリテーションへと進出してきた。
 明石さんんは岡山大学医学部の卒業後、昭和35年、整形外科に入局(児玉俊夫教授)、昭和36年香川県りつひかり製肢学園を経て、昭和38年に米国留学(ピッツバーグ・セントフランシス病院、ニューヨーク大リハビリテーション医学研究所)した。昭和42年に帰国して岡山大学整形外科・助手、昭和44年、附属病院理学療法部講師、昭和50(1975)年、川崎医科大学教授(リハビリテーション)に就任した。
 明石さんは整形外科出身のリハビリテーション教授だった。当時の雑誌「総合リハビリテーション」の編集委員は、神経内科出身の(東大教授・リハビリテーション)、脳外科出身の  先生(神奈川県・七沢リハビリテーション病院)、他がおられた。
読者の声欄「私を変えたあの出来事、場面、人、一言」■

 明石謙さんは雑誌「リハビリテーション」の編集委員のお一人であった。前段で紹介したが、雑誌「総合リハビリテーション」の編集会議に、毎月、岡山から東京までで来て下さった。どちかというと物静かな地味なお人柄だった。
 2010(平成22)年3月26日に雑誌「理学療法ジャーナル」の編集会議に出席した。翌年、2011(平成23)年1月末に私は定年退職をしたので、退職の10ヶ月前である。職責は常務取締役であったので、もう現場の会議は本来なら後進に任せて自粛の時期だった。現場が好きで臆面もなく出席したのだろう。
 この会議で「読者の声」欄に兵庫県の若手・理学療法士(垣内優芳さん)からの投稿があった。この中で明石謙さんに言及されていた。
 再掲する。
<「私を変えたあの出来事、場面、人、一言」
 
川崎医科大学リハ科の初代教授である、母校の学院長でもあった故明石謙先生は、私が理学療法士を目指した受験の日、面接官の一人でした。面接時、緊張の余り何を答えたかは覚えていませんが、「上手いこと言うね」と高笑いされて、なぜか「あぁ落ちた」と勝手に思いこみ岡山から雪の降り積もった家路に辿り着いたことを覚えています。母校の卒業後、初めて社会人と「なった私の就職先の上司もやはり明石先生でした。生まれて初めて口にした白ワインと紹興酒を、勧めて下さったのも先生でした。
 その後、理学療法士となり5年目のことです。この時、先生はざねんながらお亡くなりになられていましたが、先生が書かれたある療法士向けの著書を手にしました。その著書の序文には、「諸君の研鑽を祈り、後に続く者を信じる」と書かれていました。その時は、何気なくその言葉を紙に書き留めただけでしたが、それから4年ほど経過した今その言葉がわすれらません。職場を変わり、何かの縁で今は「明石」の民間病院で働いています。明石先生がその言葉に秘められた思いを胸に、卒業生の一人として、生涯学習を怠らず、自分に出来ることをこれからも頑張っていきたいと思います。 垣内優芳(兵庫県)20代>

 上記の投稿は当日の編集会議で、おそらく採択されたと思う。2010(平成23)年の「理学療法ジャーナル」に掲載されているだろう。これは、明石さんへの垣内さんからの最大のオマージュである。それにしても、明石さんは70歳という若さで去っていかれた。
 12年後の現在、インターネットで垣内優芳さんを検索した。多くの論文がヒットしてきた。垣内さんは理学療法士としての足跡を着実に積み重ねていた。明石先生は優れた教育者であったのだ。垣内さん、勝手な引用をご容赦。