(124)天児民和さんと連載「整形外科を育てた人達」~1995年4月6日(木)
1995年4月6日(木)。九州大学名誉教授(整形外科)の天児民和先生が逝去された。私の手帖のメモには、「午後17時頃との情報」と記入してある。実は、私は天児民和先生と直接の面識はなかった。
■雑誌『臨床整形外科』■
- 1995年4月6日(木):
勤務していた医学書院で、1993年3月末から医学雑誌部に異動となった。雑誌『臨床整形外科』を、偶然に担当することになった。
天児先生はこの雑誌の創刊時の編集主幹であり、産みの親かつ育ての親であった。私が携わったときには、既に編集顧問になられていた。通常の編集会議には出席しないで、「整形外科を育てた人達」という連載を寄稿されていた。この連載の校正往来の実務を通じて、私は天児先生との知己を得た。整形外科関係の学会取材に行く度に最前列に座り発表に耳を傾けている小柄なお年寄りがおられるのに気がついていた。「この方が天児先生である」と、暫くして知った。天児先生は文字通り日本の整形外科学、そしてリハビリテーション医学の草創期からの牽引車であられたのだ。
■連載「整形外科を育てた人達」■
連載「整形外科を育てた人達」は、1994年11月(『臨床整形外科』29巻11号)で休載となった。1983年18巻1号に掲載の第1回から第131回まで、12年間にわたる長期連載であった。連載第1回は、Ambroise Pare(1510?~1590)、2回目にNicolas Andry(1658~1742)が取り上げられている。最終回の第131回は、Emanuel B. Kaplan(1894~1980)となっている。パレ(Pare)といえば外科の創始者として著名である。敢えてパレをトップにもってきた理由について、連載の「はじめに」で天児さんは、次のように書いている。
「整形外科を今日の状態まで育ててきた人は決して少なくない。又、整形外科と言う言葉は、Nicolas Andry(1658~1742)が1741年に「L’Orthopedie」を著した時に始まるのであるが、それまでは今日で言う整形外科治療を全く行っていなかったのではない。むしろ、昔の外科は主として四肢の外傷・疾患を取り扱ってきたのである。換言すると、整形外科治療はAndry以前からあったと考えるべきである。・・・・・・整形外科の源流は昔の外科の中にあったわけである。これの歴史を遡ると古代にまで到達する。しかし近代整形外科に関係の深い人物を求めると、まずAmbroise Pareから書くことになるだろう。」
連載に取り上げられた整形外科医は海外の整形外科医が多いが、天児さんの恩師の神中正一教授(1890~1953)を初めとして14名の日本人の整形外科医も取り上げられている。
■『整形外科を育てた人達』の出版■
●1999年11月:
好評のうちに休載(実質上の終載でも「休載」とするのが慣例)となった連載は、5年後の1999年11月に、単行本『整形外科を育てた人達』として刊行(編集・発行:九州大学整形外科教室同窓会)された。出版に関しては私も編集室の一人として資料のコピーの準備等のお手伝いをした。この本により世界のそして日本の整形外科の歴史を辿ることができるのは幸いである。
(2019.7.2)
(私の「医人」たちの肖像―〔124〕天児民和さんと連載「整形外科を育てた人達」~1995年4月6日)