TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「第二章 風雲の幕末と事件の伏線」(『もう一つの維新史』)を読みついでいる

 一昨日(2023年5月12日)から北杜市清里山荘に来ている。持参した『もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合—(外山幹夫)』を読み継いでいる。この本の成り立ち目次はこうだ。

第一章 謎の幕末肥前大村藩
 この章にこういう記述がある。

 <最後の藩主大村純熈は、幕末、いち早く西欧文明に眼を向けた開明的な名君であって、積極的にこれを取り入れようとした。そして勤王の旗印を鮮明にして、倒幕にも、薩長に次いで重要な役割を果たした。
 これを支え、藩を勤王方に導いたのは、上級藩士の子弟で、少壮有為な渡辺清左衛門とその弟渡辺昇、楠本勘四郎、長岡治三郎、松林簾之助らであった。
 ところがこの間、家老浅田弥次衛門正源は藩内の実力者であって、保守的な人物であり、佐幕派の巨頭であった。文久三年(1863年)、藩主純熈が皮肉にも長崎奉行に任ぜられ、心ならずも幕府政治の一翼を担わされることになったのを機に、弥次衛門は、渡邊兄弟ら勤王派の抑圧に乗り出した。>

第二章 風雲の幕末と事件の伏線

第三章 三十七士同盟の謎

 「三十七士同盟」とは勤王派の集まりのことである。三十七士には、渡辺兄弟の血縁者多かった。こういう記述がある。

 <元治元年、(家老)浅田弥右衛門の実弟で元締役の富永快左衛門を、梅沢武平は渡辺昇と共にその家に侵入し暗殺したとみられる。

 勤王と佐幕の争いとはいえ寝込みを襲い就寝中に暗殺しているのである。

 第四章 元治元年の政変と大村純熈

 「罠にかかった浅田弥次右衛門」という項目には、藩主大村純熈のもとでの勤王派と佐幕派というか家老の浅田弥次右衛門との間の争いが書かれている。
 <藩主純熈が、元治元年八月一八日長崎奉行の辞任を願い出た翌十九日の七ッ時(午後四時)頃、家老浅田弥次衛門は、突如、藩庁から明日玖島城に登城することを差し控えよーーという命を受け、愕然とした。・・・・・・・・・・・登城差し止めの令は、彼にとって正に青天の霹靂であった。そして、さらに弥次衛門への追い討ちは、登城差し止めのおよそ一ヶ月半ののちにやってくる。
 十月五日、まず実弟で元締役の富永快左衛門が暗殺され、その五日後の十月十日に、弥次衛門は稲田隼人、緒方久蔵と共に、家老以下それぞれの役を罷免されてしまった。・・・・失脚したのである。>

 この章には、
 「元締役富永快左衛門の暗殺」という項目で書かれている。

 <元治元年(1864年)十月五日夜、元締役富永快左衛門は、上小路にあったその家で、忍び込んだ二人の者によって熟睡中を襲われ、暗殺された。そして、その罪状が城下の各所に掲示された。>

 忍び込んだ二人の者とは梅沢武平と渡辺昇である。二人とも剣術の達人である。その武士が深夜に熟睡中のものを暗殺するとは理由はいかがにしても武士の風上にも置けない。この渡辺昇(わたなべのぼり)は明治維新を経て新政府の要人となり大正時代まで生きた。ネットで調べるとこうあった。
 <1838~1913、江戸時代の大村藩士、明治時代の政治家、また剣術家。大阪府知事元老院議員、会計検査院長貴族院議員を歴任。>
 晩年という項目にこういう記述があった。
<幕末期に斬った敵の亡霊に苦しめられ、書生に体を揉ませなければ眠れなかった。良い心地で寝ていた者を斬ったのが後々まで夢となって苦しめられたという。>

 暗殺という手段で対立する勢力を排除して明治維新に生き残っていったのだ。最後は貴族院議員となって天寿を全うしている。

 ■富永快左衛門とは■

 暗殺により非業の死を遂げた富永快左衛門とはどういうひとだったのだろう。件の「維新史」にはく書いてあった。

 <富永快左衛門が務めた元締め役とはどんな職務であったのか。それは、「勝手方,普請、其外雑用等」が滞らぬように計らうべき役とされていた(『秘録』)。つまり、藩の財政・建築、その他の雑用を処理すべき立場であり、藩の要職であった。>

 記述を読むと藩を円滑に運営するための財政、建築ほかの実務運営の元締めである。さらに、こう書いていある。

 <しかも、富永快左衛門は、何よりも家老浅田弥右衛門の実弟であり、彼の妻は家老江頭官太夫の娘であった。ということは、この年に官太夫が老齢のため辞任し代わって家老となった嫡子江頭準之助及び二男荘新右衛門は、ともに富永快左衛門とは義兄弟の関係にあった(もっともこの点、長与専斎家から嫁したという異説もあある)。
 富永快左衛門の性格は豪放でときに藩で禁止していたにも拘わらず鉄砲で鴨を射ち落とし、これを若者に振る舞うこともあったと伝えれれている。>

 上の記述は興味深い。ゴシックで記した記述をみると、富永快左衛門の妻は「長与専斎家から嫁した」とある。私の義父(TT)が作成した系図によれば、大村藩医であった長与俊達の長女タネと長与中庵の長男が専斎であり、おなじく長与俊達の四女マサが富永快左衛門に嫁している。浅田弥右衛門の実弟がなぜ富永姓を名乗っているのかは調べ切れていない。

(ここまで、今回は)