TomyDaddyのブログ

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『もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合』(外山幹夫著)を読了して思うこと—外山さんにお会いしたかった

 読み継いできた『もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合』(外山幹夫著)を読み終えた。昨日から今日にかけて、

 第七章 維新前後
 第八章 明暗を分けたその後の生涯

 までを読み終えた。肥前の小さな大村藩明治維新において薩摩、長州に伍して明治維新に関わってきた歴史がよくわかった。大村騒動という身内の殺し合いを経て明治維新に突入していったのだった。

 「第八章 明暗を分けたその後の生涯」を読むと、日本が明治維新を経て近代化していく中での権力争いの様相をみる。「明暗を分けた・・・」をみると実に興味深い。この本の主人公と言うべき渡辺昇は凄惨な中を生き延びて明治維新後には大阪府知事になっている。晩年は大村騒動時代の殺し合いの悪夢に悩まされていたが当時としては天寿ともいえる76歳まで生きた。

 「意外な教育者への道」のところで、「三十七士」の中心的な位置をしめた長岡治三郎のことが書いてあった。

 <明治四年十一月、岩倉具視使節団に(藩主)大村純熈が加わって、欧米巡視の旅に出たとき、彼は、湯川、松浦両氏と共にこれに随行して赴くという幸運に浴した。>
 治三郎の長男が東京帝国大学教授で世界的物理学者になった長岡半太郎である。長岡半太郎は後に大阪帝国大学初代総長になった。岩倉具視使節団には長与専斎も入っていたのだ。

 この長与専斎については、「難を免れた長与専斎」の項目でこうある。

 <大村藩の旧属でありながら大村騒動に巻き込まれて遭難することもなく、またそうかといって渡辺兄弟や楠本正孝隆らと行動を共にすることもないまま順風満帆に栄達しわが国の医学行政の頂点に昇りつめたのが長与専斎である。>

 長与専斎とは裏腹にまさに大村騒動の犠牲者となったのが浅田弥右衛門である。

 <渡辺兄弟や楠本、長与らの栄達とはうらはらに、悲惨な後半生を送ったのが浅田弥右衛門である。さきにみたように『福田頼三日記』によると元治元年十月、家老職を罷免された浅弥右衛門は、その後の慶応三年五月九日、池島遠島にされた。>

 浅田弥右衛門は殺されなかったが「島流し」になったのである。浅田弥右衛門の実弟が大村騒動の前触れとして暗殺された富永快左衛門である。快左衛門の妻は長与俊達の四女マサ(政)であり、その娘コウ(俗名クメ)が大串五座衛門に嫁して寅次郎(二男)が生まれている。富永寅次郎は祖父の姓・富永を継承して富永寅次郎となる。寅次郎は日清、日露戦争の折には職業軍人として軍属であったらしい。退役後に北海道倶知安に渡り「富永農場」を作った。その後どういう経緯か農場を従者に託して上京し、今度は千葉の船橋近辺の陸軍練兵幕末の近くで西洋茸の栽培農場を営んだ。富永寅次郎こそが義父(TT)の父親であるから、つまり私の妻の祖父である。退役ごの寅次郎の実業家としての動きは武士の商法ならぬ農業のように見える。

 本書を読んで、『もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合』の著者の外山幹夫さんに会ってみたくなった。外山さんについて調べたところ2013年にお亡くなりになっていた。10年まえのことだからもっと早くこの本を読んでいたらお目にかかれたかもしれない。

外山幹夫さんのこと
 1932年10月16日生まれ、2013年4月26日に逝去。長崎県立大村高校を経て、広島大学大学院国史学終了。日本史学者。長崎大学教授。1999年に長崎県立シーボルト大学教授。2002年退職。著書多数あり。
 続く。