TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「第5章 大村騒動の勃発」「第6章 恐怖の大粛清」(『もう一つの維新史―長崎・大村藩の場合』)を読み進める

 『もう一つの維新史―長崎・大村藩の場合』)を読み進めた。本日までに、「第5章大村騒動の勃発」「第6章 恐怖の大粛清」まで読んだ。何という内容だろう。これは、騒動とかいうより勢力争いによる内紛そのものである。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは誰の言葉であったろうか。「大村騒動」とは騒動ではなく渡辺昇らによる対立者の文字通り粛清というか排除である。「武士道」の名において切腹をして死に赴いた多くの若者の心中は如何ばかりか。
 この本を書いた外山さんは「大村騒動」は勤王と佐幕の争いなどではなくて私怨によるものであると指摘している。「浅田弥次右衛門への報復」(頁148~151)の最後にはこのような件がある。

 <それにつけても、浅田弥次衛門一派への報復としては、その規模及び報復の程度において誠に驚くべきもので、もはやそれは報復による殺戮ゲームとしかいいようのないものであった。>

 上のような、想像を絶する報復劇の伏線が本書の「第2章 風雲の幕末と事件の伏線」に書かれていた。読み返してみた。「恨まれた浅田弥次衛門」のところに、若き日の渡辺昇との軋轢が書いてある。また、藩主の大村純熈との間にも純熈の藩主になる段階で行き違いがあったのだ。

 <さきに、私(筆者)は純熈が、先代藩主純顕あの隠居の後、その子の甲吉郎(武純)を次の藩主に推そうとする御両家をはじめ、家老浅田弥次衛門以下多数の主要家臣の支持を得ぬまま、藩主の地位についたこと、そして甲吉郎成人の後には、次の藩主の地位を譲るという条件がつけられていたことを述べ、また純熈は一向にをの地位を譲ろうとしなかったという長井巌雄氏の暴露的手記も紹介した。>

 上にひいた件を読むと、浅田弥次衛門は主君の藩主大村純熈にも若い伸び盛りの渡辺昇にも恨みを買っていたのである。あまりにもドロドロした悲劇の物語である。富永快左衛門は浅田弥次衛門の弟というだけで最初の犠牲者となっている。悲運であった。「もう一つの明治維新史」という以前のもののように思える。