TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 長与家と富永の繋がり----四代を遡ると長与俊達に至る

 本日は合気道の土曜日稽古の日。本日も美しい稽古を目指す。その前に本日は義父(TT)が書き残した富永家系図のことに触れておきたい。長与俊達との繋がりである。

長与俊達のこと
 長与俊達(ながよしゅんたつ):寛政年(1790年)頃〜安政年2月26日(1855年4月12日)。江戸時代後期の医師。日本で牛痘法による種痘に成功した先駆者の一人。肥前国大村藩侍医長・長与俊民の二男。8歳のときに天然痘に罹患して死去した兄の衣服を身にまとい種痘(痘衣法)を受けて天然痘の免疫を獲得した。文化7年(1810年)俊民より家督を相続して藩医となる。俊達には四女と二男あり(長男は夭逝、二男は養子(通全)。

長女タネの夫(娘婿)長与中庵
(1)  長与俊達の長女タネと中庵には一男二女が生まれた。 

タネと中庵の長男が長与専斉

長与専斉と妻(園子)との間に五男二女が生まれた。

長男・称吉(医師となり、胃腸病院をつくる)
長女・保子(松方巌と結婚)
二男・程三(茂木へ、貿易商となる)
三男・又郎(医師となる、東大総長になる)
四男・祐吉(岩永へ、同盟通信社長となる)
二女・   (平山)
五男・長与善郎白樺派の小説家となる)

(2) 長与俊達の三女マサ(政)が富永快左衛門と結婚。

 富永快左衛門は大村藩の家老浅田弥次衛門の実弟で取締役。快左衛門は元治元年(1864)暗殺された。それで子が独りしかいない? ⇒「もう一つの維新史--長崎・大村藩の場合--」   (外山幹夫、新潮選書)参照。

▶マサと富永快左衛門の間に一女・コウ(俗名クメ)あり。
▶コウが大串五左衛門と結婚。

コウと大串五左衛門との間に四男四女が生まれる。

シモ(友子)・・・⇒大村家を継承する
一郎
寅次郎➡︎富永を継承。
ナツ(浜子)
代三郎(夭逝?)
範四郎(夭逝?)
若子・・・⇒大串家を継承(大串健吾ー健太郎、さほ子)
治子


二男・寅次郎が富永を名乗る。
▶富永寅次郎がキミ子と結婚。(寅次郎がY子の祖父)


六男、一女が生まれる。
長男:富永K(習志野に在住していた)
二男:ST(夭逝か)
三男:富永M(修善寺に住んでいた。画家)
長女:S(埼玉県毛呂山に住んでいた。)
四男:富永T(植物病理学者。元新潟大学農学部教授)五男:TS(若くして逝去)
六男:TT(修善寺に住んでいた。)

<コメント>
 上記の系図を見ると、長与俊達の長女・タネの家系から、長与専斉⇒又郎、善郎へ。三女・マサの家系から、娘(コウ)を経て、富永寅次郎(祖父)⇒富永T(義父)が生れている。富永家の家系は長与俊達の娘の家系から分かれている。母方からの継承で繋がりは薄いが四世代を遡ると江戸末期で長与俊達に繋がることがわかる。長与先生も母方(タネ)女系からの継承である。
 上記の記録は,義父(富永Tが1987年(昭和62年)12月31日付けで作成した系図(コピー)を発見したことから興味深いので記憶と記録のために書いた。