TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『火の記憶』(松本清張)を読んだ ~ 人の心の闇を描いていた 

 本日は合気道の水曜日稽古に参加した。両手取りからの各種技の稽古をした。「下実上虚」に加えて「呼吸」を意識した。とくに意識して吐く。吐けば吸うことはできる。合気道は呼吸を止めてはいけない。動きながら常に呼吸をしているのである。有酸素動作が基本であろう。百メートルの短距離走はおそらく呼吸を一度もしないのであろう。二百メートルはどうだろうか?ところが合気道は常に呼吸しながら動く。それが本日の稽古の気ずきであった。 

 帰宅して夕食のあとで『火の記憶』(松本清張)を読んだ。二作目にして松本清張さんは人の心の闇を描いていた。いや実は処女作の『西郷札』から清張さんは人の心を覗く書き手であったのだ。「人間とはなにか」を描いていたのだ。どうして初期からこのような書き手になったのだろうか?もしかしたらデビューは41歳と遅かったが17~18歳くらいから書くことに思いがあったので意識の中では書いていたのかもしれない。
 光文社版「松本清張短篇全集1」の「あとがき」の後に推理小説研究家の山前譲(ゆずる)さんが「松本清張と短篇」という文章を書いていた。

 <膨大な数になる松本清張作品でまず思い浮かぶのは昭和三十年代のミステリー・ブームのきっかけとなった『点と線』や『眼の壁』あるいは『ゼロの焦点』や『砂の器』といったミステリー長編だろうか。・・・・・
 そもそも、松本清張のデビューは短篇だった。そすいて、デビューしてしばらくは、短篇が創作の中心であった。・・・・>

 ということで私は清張さんの初期短篇に嵌まっている。清張さんは短い作品で人の心の闇に迫っている。
 山前さんがこういう紹介をしている。
 「若い頃に菊池寛芥川龍之介の短編で文学に親しんだ松本清張は、最後まで短篇の妙味にこだわっていたのだ。」
 そして次のような長い引用をしている。

 <短篇小説ほど作者の考えをはっきりさせるものはない。これは作者の構成力を端的に問えるものである。E.A.ポオやチェホフやモーパッサンやS.モームや、上田秋成の諸短篇が、他の長編小説に比べていささかも遜色がないばかりか、かえって、そのテーマの明快さのために力強い感銘を与えている。>

 このあと山前さんは「その作品世界はじつに多彩だが、短篇にこそ清張文学のエッセンスが凝縮されているとしても過言ではないだろう。」と述べている。

 ともあれ、松本清張さんの「短篇」を読む機会に接したことは幸いであった。これも雑誌文藝春秋で「池田大作さんと松本清張さんの対談」を読んだからだ。 

 『火の記憶』を読んで私の子ども時代、それも4歳頃の記憶が蘇ってきた。母に連れられ5キロくらいをあるいて母の姉の嫁ぎ先を訪問した。そこで、農家の二階に泊って二階にトイレがないので下屋の上から幼児の私は立小便を許されてしていたのだった。
 いまからではチョット遅いが清張さんを読んでみたい。「人間とは何か」、私自身のこころの闇を覗いてもしかたないのだが・・・、稲盛和夫さんに倣ってもっと美しい人間になって死にたい。