TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「邂逅」~週刊医学界新聞と日野原重明さん

「邂逅」

 ~週刊医学界新聞と日野原重明さん~

 

(1)「よど号」ハイジャック事件~1970年3月31日

 ハイジャック事件が起こった。一九七〇(昭和四五)年三月三一日(火曜日)、午前七時三三分、羽田発板付空港(現・福岡空港)行き日本航空三五一便が富士川上空を飛行中に、日本刀・拳銃や爆弾などの武器とみられるものを持った犯人グループにハイジャックされた。「よど号ハイジャック事件」と後に呼ばれる日本初のハイジャックである。 犯人たちは、男性客を窓際席に移動させ拘束。一部のものは操縦室に侵入し、相原航空機関士を拘束。石田機長と江崎副操縦士平壌に向かうよう指示した。この要求に対して、「この飛行機は国内線であるから平壌までは燃料が足りない」と江崎副操縦士は犯人に説き、給油の名目で板付空港に八時五九分に着陸した。給油を済ませたよど号は再び平壌を目指して離陸するが機長らの機転で韓国の金浦空港に着陸した。
 その後の展開は歴史的な事実として記録があるので詳細は譲る。
■日野原さんも「よど号に乗っていた■
 事件当日から日本内科学会が福岡市で開催予定であった。そのために乗客には多くの医師が含まれていた。これらの医師は「病人」や「高齢」との理由で福岡にて解放された人質の選定に協力した。その中には、虎の門病院院長で元東大教授の沖中重雄さん、東大医学部内科の吉利和教授、聖路加国際病院内科医長の日野原重明さんらが含まれていた。「よど号」に乗り合わせたことが、その後の日野原さんの医師としての生き方に大きな影響を及ぼした。以下、『日野原重明先生の生き方教室(大西康之編著)』を参考に記す。


 「これは大変なことになったと思い、とっさに頭に浮かんだのは、こうした緊急事態で人間の脈拍はどうなるだろうか」という疑問でした。隣に座っていたご婦人の脈をとろうと思ったのですが、妙な疑いをかけられても困ると思いとどまり、自分の脈を計りました。」
 「するとやはり、いつもより脈が速くなっていて、ああ、私はいま興奮しているんだな、と納得したのです。つくづく医者なんですね。」
 福岡から平壌に行く先を変えた飛行機が海の上を飛んでいるときに、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌やその他の本を貸し出す。読みたいものは手を挙げろ」と機内放送があった。乗客のなかで実際に本を借りたのは日野原さんだけであったという。
 「彼らが持ち込んでいたのは、レーニン全集、金日成親鸞の伝記、伊藤静雄の詩集などでしたが、その中にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がありました。『それが読みたい』と手を挙げると、彼らは文庫本五冊を私の膝上に置いてくれました。」
 五冊の文庫本というと米川正夫訳の岩波文庫だろうか?
 「そこにはこう書いてありました。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし。』ヨハネ福音書の一節です。この言葉に出会って、すうっと心が落ち着きました。」
 「強行突入ということにでもなれば、私も命をおとすかもしれない。いのちとは何か、死とは何か。そのとき私は深くかんがえたのです。」

 「一粒の麦もし地に落ちてしなずば・・・・」
 福音書の有名なこの一節は、『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に掲げられたエピグラフである。クリスチャンの日野原さんの心を鎮めるにふさわしい言葉だったに違いない。
 飛行機は平壌に向かっていたが、パイロットは三八度線付近で機体を左に旋回させ、韓国の金浦空港に降り立った。ハイジャック犯の多くは平壌に着いたと思ったが、メンバーの一人が着陸前に、「シェル・ガソリン」スタンドを見つける。騙されたと気付いた犯人たちは激高し、金浦空港で機内に三日間、籠城。四月三日(金曜日)、日本から駆けつけた山村新次郎・運輸政務次官が身代わりになることで、日野原さんら人質は漸く解放された。
 「金浦空港の地面を踏んだ瞬間、僕は足の裏からビビビッと霊感のようなものを感じたのです。自分が生きているということを実感しました。この命は『与えられたいのち』であると思ったのです。」
 金浦空港で妻の静子さんに出迎えられた日野原さんは、その日の深夜には東京の自宅に戻った。
 「自分が多くの人々に支えられてきたことを実感しました。だから、与えられた命を、これからは誰かのために捧げよう、と決心したのです」
 当時五八歳だった日野原さんは、内科医・研究者としての名声を求める生き方を、この事件をきっかけにキッパリと止めた。そして、三年後の一九七三年に「財団法人ライフ・プランニング・センター」を設立して、自らその理事長に就任した。「ライフ・プランニングということ」について、日野原さんは次のように述べている。
 「ライフ・プランニング・センターの目指すものの内容を、短い言葉で表現すると次のようである。『個人に健康の主体性を自覚させ、よい環境(自然・栄養・家庭・社会)のなかに、生涯を通しての健康生活の設計をたて、その実践への道を開くこと』である。」(日野原重明著『医療と教育の刷新を求めて』医学書院、一九七九年刊)
 当時は、「医療」とはいえ、主に「治療」を目指していた日本で、予防医学・医療の考え方を広めようとしたのである。
 日野原さんと「よど号」ハイジャック事件に触れた。「よど号」事件のことは、冒頭でも明記したが、大西康之著「日野原重明先生の生き方教室」から、多くを引用した。
■私の転機―札幌から東京へ

 ハイジャック事件当日、私は札幌市南部の藻岩山麓に近い読売新聞播磨販売店に下宿して新聞配達に従事していた。午後一四時頃には通常なら到着する夕刊が来ない。四時間くらい遅れて午後一八時頃に夕刊が到着した。「よど号事件」の詳細を報道するために、その日の夕刊が刷り直しを余儀なくされたのだった。

 新聞配達アルバイト学生の私は、「よど号事件」の全貌をその時点では知る由もなかった。その時から一年後の一八九七一年三月三一日、札幌を後にして東京に転居した。翌四月一日から、東京の医学系出版・医学書院での勤務が始まった。「よど号」事件は私にとっても風雲急を告げるような転機と重なる想い出となった。
(2019.11.28)

(2)『医療と教育の刷新を求めて』~1979年12月13日

「これから私は世間へ出ようとしている。ひょっとすると、自分は何にも知らないのかもしれない。それなのに、もう新しい生活がやってきてしまったのだ」(ドストエフスキー『白痴』 木村 浩訳)
 私はまるで、夜汽車でモスクワに出てくる『白痴』の主人公・ムイシュキン侯爵(「お馬鹿さん」)の心境であった。1971年4月1日から東京・文京区本郷にある医学書院という医学系出版社での勤務が始まった。社会に出て、アルバイトではなく初めて専業で働くことになったのだ。北海道大学文学部露文科を卒業して、全く畑違いの医学系出版社で口を糊することになった。
医学英語って面白いな■
 就職した医学書院における最初の配属は洋書部で、医学書籍や医学雑誌を海外から輸入して販売する仕事に携わった。精神医学は、Psychiatry (サイカイヤトリ)、糖尿病はDiabetes Mellitus (ダイヤベテス・メリタス)、等々、医学英語の修得から始めた。そのうちに、販売業務のみでは飽き足らず、医学という分野そのものに興味を持ってきた。医学は自然科学の一分野であるが、生身の人間を扱う実学であるので、人間学というか人文科学に近いことがわかってきた。そういえば、ロシアの作家チェーホフは医師であった。日本人作家の安倍公房も、「忍者もの」で著名な山田風太郎も医師だというではないか。医学・医療そのものに目が啓かれてきたのである。
 職を得た医学書院ではPR部から「週刊医学界新聞」という医師・医療従事者向け週刊新聞を発刊していた。毎週月曜日が発行日で、全社員に無料で配布される。この新聞を興味深く読み始めた。執筆者として頻繁に目にするお名前に日野原重明先生(聖路加看護大学)がおられた。日野原さんが、各種の雑誌等に書いた論文やエッセイをまとめ、『医療と教育の刷新を求めて』(1979年、医学書院刊)という単行本を出版した。1600円という定価なので安くはない。これを社員割12%引、1408円で購入した。購入伝票の挟まった本が今も手元にある。概要を再読してみた。
■「医療と教育の刷新を求めて」■
 
日野原さんは、1937(昭和12)年に、京都帝国大学医学部を卒業して医師となった。卒後二年余は真下内科医局に属し、循環器医学の手ほどきを受けてから大学院に進み心音の研究を行った。食堂内からの心音記録に最初の一年で成功して、次の一年で記録した患者の食道内心音図の分析から心房音の研究をまとめた。このあと臨床医学を深める道を探して大学の医局ではなく野にでる方向を選んだ。こうして日野原さんは昭和16年9月、東京・築地の聖路加国際病院に勤務することとなった。
 
「箱根峠を越えたら東京エリアだから、京都からの手は届かない。君は孤立無援になるが、その覚悟はあるかね」という趣旨の言葉を、恩師の真下教授からかけられたと、日野原さんが何処かに書かれていたのを読んだことがある。その年の12月8日に、パールハーバーを皮切りに日米戦争が始まった。数年して終戦後は、聖路加病院は米軍に接収された。暫くして、昭和26年9月、平和条約締結と期を同じくして、日野原さんは米国・エモリー大学に留学した。そこで、有名な「Cecil 内科学」の編者となったビーソン(Paul B. Beeson)教授の下で、一年間内科学を学んだ。日野原さんは次のように書いている。
 「
臨床医学の知識と技術を学ぶために私を動機づけ、臨床医学を身につける原動力となったのは、この一年間の充実した生活の所産だと信じている。私は、この一年間に、システムのある教育が若い人を如何に成長させるかを眼の前に見、日本の医学教育の中に、このシステム化と、教育への情熱という“パン種”を持ち込む必要を痛感し帰国した。」
 『医療と教育の刷新を求めて』のまえがき「―私の考えや主張をまとめて出版するにあたって―」に、日野原さんは次のように述べている。
 
「ここに一冊の本としてまとめた内容は、過去約十五年間に私がいろいろの機会に講演をし、あるいは寄稿したものである。」
 一
年間の留学で仕込んできた“パン種”を日本の医学・医療のなかで発酵させる試みを、十五年間にわたり続けてきたのだ。日野原さんの“パン種”から発酵した医学・医療の新しい考え方―「成人病に替わる習慣病という言葉の提唱」、「プライマリ―・ケア」、「診断を考え直す―POSの必要性」等々が、この本の中で開陳されている。
 
今ではすっかり人口に膾炙した感のある「生活習慣病」という言葉と概念であるが、日野原さんによって、四十数年前に提唱されたものであることは知る人ぞ知る。本書の中で、「成人病に替わる習慣病habit diseaseという言葉の提唱と対策」の章を、日野原さんは次のように結んでいる。
 「
私が尊敬している英米医学の大指導者であり、内科医であったウイリアム・オスラー卿(1849~1919)が、医学生に対してなした講演の次の言葉は、よき習慣作りが、体だけではなしに、心をもすこやかにはぐくみ育てることを、極めて明瞭に表現をしているので、そのことばをここに紹介する。『からだをすこやかに保つ役に立つ習慣は、こころもすこやかにはぐくみ育てる』(1978年9月)」
■日野原さんに会いたい■
 
日野原さんの本を読んでみると、医学・医療が、とても人間臭い(当然なのだが)ものに感ぜられるようになった。入社して三年後の1973年頃から、当時の田中角栄首相の時代に医師不足を解消するために、「一県一医大構想」が提唱され、全国各地に医科大学、医学部が新設されるようになった。次の部署では、新設医大医学書籍や医学雑誌を納入する業務に従事しながら、日野原さんの書かれる文章を少しずつ読んでいた。
 
毎年四月の人事異動前に実施される異動希望調査票に、希望部署として「医学界新聞」と、書き続けた。「ひとはパンのみにて生きるにあらず」と、コメントを書き添えた。「より意義あると感じられる業務に携わりたい」という希望を言外に匂わせたつもりだった。
(2019.6.9)

(3)重い鞄を持つ人! ~1981年5月15日(金)
 毎年春に行われる勤務先の人事異動で1981年五月から「週刊医学界新聞」担当者の一人に私は配属された。1971年入社から十年が経過していた。洋書販売業務(営業畑)から編集職への移籍なので、「出版編集技術」等の参考書をエディターズスクールで購入し編集の基礎知識を密かに身に着けた。

■日野原さんとの出会い■

 週刊医学界新聞の蔭(実質上)の編集長は、日野原重明先生(当時は聖路加国際病院臨床医学教育顧問)だった。今から三七前であるから日野原さんは六九歳頃である。日野原さんは、重い鞄を何時も持っていた。それと、日野原さんは余りにも悪筆であり、執筆いただいた原稿の解読に一苦労するということだった。医学界新聞への寄稿原稿を、日野原さんは移動車中で書かれるために文字が揺れているというのが真相だった。日野原さんは既に70歳近かったが、聖路加の病院長ではなかった。あとで朝日新聞の連載「生き方上手」(2013年掲載)の中で、こんなエピソードを、日野原さんが自ら開陳されていた。
 「日本船舶振興会笹川良一氏から援助のあるライフ・プランニング・センターの理事長を辞任すれば、君を聖路加病院の院長に推挙しますよ、と当時の橋本寛敏院長に言われたがお断りした。」
 自らの信念に沿って筋を曲げない方なのだ。

■北米医療見聞記を寄稿された■

年に数回、日野原さんは米国へ医学・医療視察の旅に出かけた。その都度その折の北米医療体験記を医学界新聞に寄稿された。また、米国の医師が来日するたびに対談や座談会等を行い、医学界新聞紙上で紹介された。

アメリカにおけるプライマリ・ケア―家庭医学教育の発展(R.S. Lawrence、日野原重明、丸山雄二 )」(第1446号、1981年5月4日)、「新しい病院作りへの展望(M.T. Rabkin、日野原重明、松枝 啓)」(第1462号、1981年8月31日)、等々。英国の開業医John Fryの「Primary Care」をいち早く医学界新聞において連載で紹介した(第1438号、1981年3月9日~ 第1475号、1981年11月30日)。プライマリ・ケア(Primary Care)とは、文字通りに言えば「初期診療」のことで、個人や家族の身近にあり何でも診てくれる総合的な医療のことで、最初の受診が如何に重要であるかを示す。日野原さんこそが、わが国へのプライマリ・ケア概念の導入者であった。
(2018.10.10)

(4)「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」~1981年7月23日(金)

出張校正で港区・新橋の大日本法令印刷に直出した。1981年7月23日(金)は、医学界新聞・第1459号(1981年8月3日付)の校了日だった。
■「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」の連載開始■
 日野原重明先生による新連載「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」が始まった。二面に掲載だった。第一面には、6月27日(土)~28日(日)の両日、大阪で開催された「第四回日本プライマリ・ケア学会」の取材記事を掲載した。これは先輩記者のKI君が執筆した。バックナンバーを紐解くと、第59回日本医学会シンポジウム「脳梗塞の問題と展望」の記事が第三面に載っていた。私の書いた初めてのまとまった取材記事であった。駆け出し記者の私には忘れられない第1459号である。
 日野原さんは1981年四月に渡米した。「病院の役割―その国際的見通し」というテーマの「Macy symposium」に参加のためであった。その折に、米国の病院の実態をつぶさに見聞された。医学界新聞における新連載の趣旨は、次のようだ。アメリカでは病院の悪化やスタッフの確保に困惑しているとのことである。アメリカの医療をある程度模範としてきたわが国にとって、この報告は今後の病院を含めた医療への提言となりうる。
 連載は、第1回(第1459号、8月3日付)から第11回(第1472号、11月9日付)まで四カ月続いた。それらのタイトルは以下のようだった。
(1)St. Luke’s-Roosevelt 病院訪問、(2)Duke大学訪問、(3)Duke大学の医学教育を見聞、(4)R.B. Williams Jr, W. Anlyanらと会見、(5)Macy Symposium、(6)Duke大学新病院落成記念式典に出席、(7)アメリカの看護婦をめぐる現状、(8)Dr. Bigg教授と再会、(9)アメリカの病院看護婦等の現状。
■『医学するこころ―オスラー博士の生涯』■
 シリーズブログ<私の「医人」たちの肖像>の中で、日野原さんを紹介する機会に、1948(昭和23)年に日野原重明さんが書かれた『医学するこころ―オスラー博士の生涯』(新版)を買い求めて読んだ。その第1版「序」には次のように書かれている。「私は、アメリカ医学を、あるいはさらに英米の近代医学を今日あらしめた数かずの優れた医人の中に、ウイリアム・オスラー卿を特記したい。私は、少なくともアメリカ医学は、彼オスラー博士なしには論ずることができないとさえ考えている。」
 さらに次のようにも記されている。「オスラーは単に英米の医学の開拓者であったのみならず、身をもって、カナダ、合衆国、英国、ドイツ、オーストリア、フランス、オランダ、イタリア等の医学界との橋渡しとなった。」事実、カナダで医師としてスタートしたオスラーは、米国時代も数年に一度はヨーロッパを歴訪しドイツ、フランス等の情報を米国の医学雑誌に寄稿している。
 1948年といえば、日野原さんは若干三九歳である。中央医学社という出版社から刊行した『医学する心―オスラー博士の生涯』は1000部の発行であった。戦後まもなく印刷用紙も少ない時代に未だ無名(であったろう)の医師が書いた「伝記本」を出すことは出版社にとっても英断であったに違いない。上記の本は、装いも新たに第二版が岩波書店から、1991(平成3)年に刊行された。岩波という老舗で再版されるまでに実に四三年が経過していた。著者の日野原さんも齢83歳になっていた。
「オスラーを師として私は生きてきた―再び刊行される『オスラー博士の生涯』に寄せて」に、「第2版序」として、日野原さんは次のように書いている。「当時(1948年)、日本での医学教育は、終戦後の混乱からやっとたち立ち上ろうとしていたが、アメリカ合衆国の医学教育や臨床医学のシステムを知る文献は非常に乏しかった。日本の医学教育や臨床医学が戦前のドイツ医学の模倣を続けることへの問題点を私は強く意識していたので、私の知る限りの資料を集めて、日本の医学教育と医療の流れを、もっと人道主義的なものに変え、しかも科学的裏づけをしっかりしたいと強く願った。」
米国の医学・医療情報を日本に伝える役割を自らに課した
 オスラーの顰にならい、日野原さんは、米国の医学・医療情報を日本に伝える役割を自らに課したのだと容易に推察される。日野原さんはアメリカの医学・医療と日本のそれとの橋渡しの役割を意識していたのだと思う。日野原さんのアメリカ医学・医療見聞記を読むと、作家の小田 実さんの「何でもみてやろう」を思い起こす。「何でも見てやろう―アメリカの医学・医療」という雰囲気を感ずる。頂戴した玉稿は特徴のある走り書きで、担当した同僚のKI君も解読に苦労していた。新人の私はその作業を脇からみていて、「お忙しいなか日野原先生も良く書いて下さるなあ」との感想を持った。不覚にもその中身の持つ意義には気がつかなかった。
 「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」を連載で医学界新聞に寄稿頂いた1981年、日野原さんは七〇歳、聖路加国際病院臨床医学教育顧問という立場であった。当時としてはかなりの高齢者の範疇にあったろう。聖路加国際病院での所属は、定年(があったら)後の特別の立ち位置であったのではないだろうか。新米記者の私は若干三四歳だった。幸せな出会いであった。
(2019.6.8)

(5)座談会「POSのDr. Weedを迎えて」〜1981年10月1日(金)

パレスホテルで行った座談会「Dr. Weedを迎えて」の収録に参加した。収録場所のパレスホテルは大手町の皇居に近い格調の高いホテルだ。その頃から外国人を招いての座談会や対談等の収録会場として頻繁に利用した。

■POSの開発者Dr. Weedを囲んで■

Weed L. L.は、アメリカで始まった診療記録記載方法POS(Problem Oriented System)の開発者として知られていた。この座談会はWeedの来日の機会を捉えて、日野原重明先生の紹介で開催した。座談会設定の実務は、先輩記者KIさんが担当した。座談会には、Weedを迎えて日野原重明紀伊國献三、森 忠三、片田典子の五名の方々に参加いただいた。座談会の内容は、年明け1982年1月の医学界新聞・第1531号に掲載された。

■POSって何?■

POSは、Problem-Oriented Systemの略語であり、患者の持っている医療上の問題点に焦点を合わせ、その問題をもつ患者に対する最高のケアを目指して努力する一連の作業システムである。Weedが考案したこのPOSの概念に基づいた診療記録を、Problem Oriented Medical Record (POMR)「 問題志向型診療記録」という。POSの概念をいち早く日本に紹介してPOMRを日本の医療への導入を進めたのが日野原さんだ。『POS :The Problem-oriented System ―医療と医学教育の革新のための新しいシステム』という書籍を、医学書院から出版(1973年)した。さらに、「POS研究会」を創設して、POSの日本の医療界への普及のために尽力された。
(2018.10.22)

 

(6)武見太郎さんと対談「科学・哲学・医学」~1981年10月

1982(昭和57)年の医学界新聞の新年第1号は、「日野原重明・武見太郎対談」とデスク会議で決まった。当時の編集室の陣容は、TS室長以下SH君、KI君と私の4名だった。
■医師会のドンを招いた■
 
この企画は既にベテラン編集者の域にあったSH君の提案だった。対談収録は1981年10月末か11月の初めだった。当時の手帖にメモの記載が、残念なことにないので記憶から書き起こす。武見太郎さんは、既にそのころ日本医師会長を二十四年間に亘って務めていた。日本医師会館は、その当時、JR御茶ノ水駅から水道橋方向に歩いて三分位の古色蒼然とした線路際の路の対面に立つビル内にあった。武見医師会長に御登場願うので、日本医師会館から近い御茶ノ水の「山の上ホテル」に、収録会場を設定した。対談開始時間を夕刻18時に決めた。下準備に余裕をみて、私たちスタッフは17時前に現地に到着した。すると間もなく、日野原さんが、一時間も前に到着した。通例の会議なら、多忙なゆえに到着は開始直前が、普通だった。日野原さんが、珍しく心持ち緊張しているようにもみえた。
■対談「科学・哲学・医学」■
 
武見太郎医師会長が間もなく到着した。物静かな小柄なお年寄りが入って来た。余りの変貌に驚いた。厚生省との交渉にも一歩も引かない豪胆な姿勢と猪首の風貌から、『喧嘩太郎』とか『医師会のドン』と、武見さんは、そのころ言われていた。間近にお目にかかると、武見さんは物静かな学究の徒の風貌であった。武見太郎会長は、1981年4月1日開催の第62回日本医師会定例代議員会で、退陣を表明していた。その理由が体調不良であった。収録前の雑談の折に、「酵素(enzyme)」関係の海外雑誌を購読されていると話されていた。
 対談のテーマは「科学・哲学・医学」。この日の対談記録は、1982年1月4日付の医学界新聞・新春第1号(第1479号)の年頭を飾った。
■日野原さんの記憶に残る対談■
 
上記の武見対談について、日野原さんの興味深いコメントを見つけた(医学界新聞・第3000号、2008年10月29日付)。「私もまだ若いねぇ。日本医師会長の武見太郎先生に対して,私は聖路加国際病院の内科医でした。おまけに聖路加の院長だった橋本寛敏先生は日本病院協会(現・日本病院会)の会長を務めた方で,病院協会と医師会は対立関係にありました。でもどういうわけか、私は武見太郎先生にはとても可愛がってもらった記憶があります。」
(2018.10.12)

(7)「日本オスラー協会」発足と『平静の心―オスラー博士講演集』の発刊~1983年8月1日(土)

日本オスラー協会が発足した。『平静の心―オスラー博士講演集』(日野原重明・仁木久恵訳)が、その日に併せて医学書院から発刊された。医学界新聞では、「日本オスラー協会発足」の記事を、第1567号で掲載した。さらに、「日本オスラー協会の発足と『平静の心』の出版の一文を、日野原重明先生から寄稿して頂いた(第1573号掲載)。
■原著Aequenamitas (平静の心)とは?■
 
ジョンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins University)医学部・内科教授であったウイリアム・オスラーは、それまでに医学生・看護師・実地医家に対して行った十八回の講演をまとめて、Aequenamitas (平静の心)と題して、1904年に出版した。さらに、オスラーはジョンズ・ホプキンス大学を1905年に辞して北米を去り、英国に渡る前に行った四回の特別講演と併せて合計二十二となった講演集を、1906年に第2版として出版した。これと同じ内容の第三版(1932年)を、日野原重明さんは、第二次大戦直後(1945年)当時マッカーサー司令部軍医団のバウワーズ(W.F. Bowers)軍医から譲り受けた。
■日本語版『平静の心』の出版と日本オスラー協会の発足~1983年9月■
 日野原さんが、2002年(91歳)頃、朝日新聞に連載していた「私の証・あるがまま行く」というエッセイには次のように書かれてある。
 「戦後、聖路加国際病院は米軍に接収され、米軍の陸軍病院となった。その結果として、海外情報に触れる機会が増えて、上述したように米軍医を通じてオスラーの講演集を入手した。」これを読んで日野原さんは、「臨床医に必要なものはこれだ。」と確信した。そして、早くも1948年には、『アメリカ医学の開拓者、オスラー博士の生涯』を、自ら翻訳し出版している。さらに、感動の心で読み継いできた講演集『平静の心』から十五編、オスラーが1919年に英国オックスフォードの自宅で亡くなるまでに行った講演の三篇を選び、併せて十八編の講演を、十年の歳月を要して日本語に翻訳した。これを日本語版『平静の心―オスラー博士講演集』として、1983年に、日野原さんは発刊したのである。
 『平静の心(初版)』は、日本オスラー協会の発展と歩を併せて、医師・看護師・医学生を初め多くの読者を得た。この時から二十年を経て、新訂増補版『平静の心』が2003年に発刊され、現在に至っている。
(2019.5.21)

(8)「日野原記念ピース・ハウス病院」~1987年8月29日

「日野原記念ピース・ハウス病院」は、日野原重明さんが作った有名なホスピスである。新宿から小田急線で1時間半、秦野駅近郊にある。最近、御殿場線上大井駅から数回にわたって里山歩きを楽しんだ。日野原記念ピース・ハウス病院はこの辺りからも遠くない。箱根に近く、富士山を望む、神奈川県足柄上郡中井町の丘の上にあるのだが未だ訪れたことがない。
■東京周辺にホスピスを作りたい■
 「がんなどの末期患者が家庭的な雰囲気の中で人生の最期を心も体も安らかにできる家(ピース・ハウス)を東京周辺に―と日野原重明聖路加看護大学学長(七五)は、今、建設準備に追われている。病院の中のホスピスがあり、また末期がん患者たちへのさまざまの対応の試みもあって、ホスピスが非常に注目される昨今である。」
 1987(昭和62)年8月29日の朝日新聞の記事から引用した。その頃、75歳の日野原さんは、ホスピスを造ろうとしていたのだ。
ホスピス「ピース・ハウス」設立■
 日野原さんの念願した「独立型ホスピス「ピース・ハウス病院」が設立されたのは、1993年のことだ。完成までに6年を要したことになる。日野原さんは開設に寄せて次のように書いている。
 「私がホスピスをつくりたいと思ったのは、1967年にイギリスのロンドン郊外にシシリー・ソンダース先生によってつくられてからです。私はそれまでも長い臨床医としての仕事を通して、人間の最期こそがもっとも手厚い看取りによって、心おきなく家族や親しい人たちとお別れすること、そういう場面を設けることではないかと考えてきました・・・。」
■運営の難しいホスピス―さもありなん■
 
「ピース・ハウス病院」は、六億円余の寄付によって設立され、運営も多くのボランティアスタッフに支えられ「非営利団体」の色彩が濃い。根本的には望ましい終末期医療についての日野原さんの理念と熱意に支えられてきた。設立1993(平成5)年から22年が経過した2015(平成27)年3月31日、運営費の不足等からピース・ハウスは休止となった。完全独立型のホスピスは、院内型に比べて一般病棟で利益を上げることができないので経営が厳しかったのだ。
■ピース・ハウス病院の休止と再開■
 2015年4月から休止を余儀なくされたピース・ハウス病院だが、翌2016年には再開を求める多くの声に応えて、過去に17年間、同院で院長を務めた西立野研二氏を招聘し、また15人の看護師を採用し、「日野原記念ピース・ハウス病院」として再開した。病床数は22床である。2016年4月1日に行われた開院式には同院理事長の日野原さんも出席した。
 「このように皆様の前であいさつができることに、私の心臓はどうしようもないほどひどく動悸を打っています」と、日野原さんが話されたという記事を見つけた(地元のミニコミ紙「秦野タウンニュース」)。
 ピース・ハウス病院が再開した翌年、2017年7月18日、日野原さんは逝去された。逝去にともない同病院の設立母体であるライフ・プランニング・センターの後任理事長には、永年にわたって日野原さんを支えて来た道場信孝さんが就任した。ピース・ハウススを創設に着手した時、日野原さんは75歳。さらに、聖路加国際病院の院長に就任するのは、5年後の1992年、80歳のときである。まさに年齢は関係なく常に新しいことを追求していた。
(2019.3.28)

(9)統合講義「ターミナル・ケア」(於:慈恵医大)と山崎章郎さんのこと ~1991年10月30日

三十一年の時空を超えて日野原重明先生の謦咳に接した。これを謦咳や肉声というのだろうか?古い資料入れ段ボール箱を整理していて、「1991.10.30. 慈医大テープ 日野原・他」と明示した封筒を見つけた。中身を確かめると二巻のカセットテープがでてきた。一巻は「ターミナル・ケア(45分)」と明記、二巻目は「1991.10.30慈恵医大統合講義」と明記してあった。果たしてこのテープは生きているだろうか?手持ちの古いラジカセに入れてスイッチを入れてみた。テープはなんと健在であった。少しシャガレ声の日野原先生の紛れもない肉声が聞こえてきた。雑音が入りあまり鮮明ではない。それでも聞き取ることができる。手帖のメモによると、この日、午後14時40分から17時までの予定で東京慈恵会医科大学の統合講義に招かれて取材にいった。招いて下さったのは橋本信也先生(第三内科)であったと思う。以下、記憶と記録のために書いておきたい。
 「命の選択―延命医学と有終医療」のタイトルを付けて、翌年の医学界新聞・第1986号(1992年3月16日付)に、日野原さんの講義録を編集して掲載した。
統合講義「ターミナル・ケア」
「統合講義―ターミナル・ケア」の冒頭を、山崎章郎さん(千葉大卒、当時は八日市市立病院医長)が書いた「病院で死ぬということ」の紹介から日野原さんは始めた。山崎さんは、まだ若い医師であった。勤務先の病院で従事した「ターミナル・ケア」の医療経験から『病院で死ぬということ』という本を書いた。この本が巷間の評判を呼び、第39回日本エッセイストクラブ賞を受賞したばかりだった。
 「人の九十パーセントは病院で死ぬ。逃れ得ぬそれらの死の有様について現役の医師が告白的に手記を書いた。これが『病院で死ぬということ』という本です。」
 山崎さんが、そのあと医師としてどのように歩まれたかを、山崎さんの著書や諸々の報道記録により、私たちは辿ることができる。このブログでも「大和臨床懇話会」に言及した際に、登壇した山崎章郎さんに触れたことがある。そして、山崎さんは現在、ステージⅣの大腸がんと闘っている。『ステージ4の緩和ケア医が実践するがんを悪化させない試み』という本を山崎さんが出版した(「新潮選書」、2022年)。上記で触れた本を読んでから山崎さんについてはまた言及したい。それにしても私の資料からでてきた「日野原先生の生の声」は貴重なものではないかと思う。テープからデジタル(スマホ)に移したので改めて聞いてみたい。
(2022.11.26)

(10)インタビュー「『個』の医療の展開を―ホスピタル新時代の幕開けを告げる新聖路加国際病院

新装なった聖路加国際病院の院長室を、1992年6月1日(月)午後16時~18時のあいだ、訪問して日野原重明先生にインタビューを行った。H次長、同僚のKIとKHの両君、富永と四人で訪問した。事前のアポイントはいただいていたが、四人でおしかけたので日野原先生が驚かれて、「大勢でどうしたのですか?」と言われた。
■医学界新聞第2000号記念特集:日野原重明院長に聞く■
 聖路加国際病院は、少し前に竣工なった新病院に引っ越したばかりだった。引っ越しの当日は、特別に取材を許されて、TYカメラマンと院内の写真撮影を行っていた新病院の廊下には、万一の機会に備え、医療機器を繋ぐことのできる装置が付いていることも売りの一つだった。
 インタビュー構成をどうするかをいろいろと考えた。半年くらい前、1991年10月30日に、慈恵医大における日野原先生の医学生(六年生)向け統合講義・医学総論「ターミナル・ケア」を招かれて取材した。「命の選択―延命医学と有終医療」(日野原重明)として、医学界新聞・第1986号(1992年3月16日付)に掲載した。この折の取材経験からインタビューを始めた。インタビューは思いのほか上手くいった。冒頭を以下に紹介する。

―新病院の開院、おめでとうございます。日野原先生は『有終の医療』ということを、最近、主張されています。これは先生の造語とお伺いしましたが・・・。
 日野原 当時の厚生大臣が「ターミナル・ケア(terminal care )を『週末医療』と訳しているけれども、これは切り捨てるような感じを与える。もっといい言葉はないか考えてください」と局長を集めて話されたのです。その時、日野原先生だったら、何かいい言葉を考えられるだろうと相談を受けました。私は何かいい言葉はないかと思いながら、翌日、高速を車に乗って走っている時に、フッと『有終の美』という言葉を思い浮かべました。人は一生を終わるにあたり、「私の人生はそれなりによかったのではないか」と思いながら最期を迎えられたら一番よいのではないか。そうなるように手助けするのが、「有終の医療」という意味です。

■『有終の医療』の実現を求めて■
 新装なった聖路加国際病院は全室が個室を基本としていた。「『個』の医療の展開を」という言葉が、そのコンセプトを表している。
「『個』の医療の展開を―ホスピタル新時代の幕開けを告げる新聖路加国際病院」のタイトルを付けて、医学界新聞・第2000号の第1~5面に、インタビュー記事を掲載した。英国の内科医で「プライマリ・ケア」の創始者で実践者であるジョン・フライ(John Fry)の特別寄稿「日本:よりよいプライマリ・ヘス・ケア」を、6面には掲載した。さらに、付属のグラフに、「医人たちの20年」のタイトルで過去20年間に医学界新聞に登場していただいた内外の医師、医学研究者の顔写真をコラージュで紹介した。
 記念すべき、医学界新聞・第2000号特集が完成した。この時から3年後の1995年3月20日地下鉄サリン事件が発生した折に、新聖路加国際病院の廊下が数百人の緊急患者を受け入れる仮病室になったことは、日野原さんの先見の明とし記憶に残る。
(2019.5.18)

(11)座談会「在宅ホスピスとは何か? Dr. Andrew Billingsを囲んで」1992年8月28日(金)

第18回医療と教育に関する国際セミナーが、1992年8月28日(金)、29日(土)の2日間、東京・芝のプリンスホテルで開催された。国際セミナーの主催は、(財)ライフ・プランニング・センター(日野原重明・理事長)であった。
 「施設内ホスピスと家庭におけるホスピス・ケア」が、国際セミナーのテーマであった。「ホスピス」という言葉自体も、1992年当時とは人口に膾炙しているものではなかった。会議の1日目に、英国、オーストラリア、アメリカのホスピス及び緩和ケア病棟の現状が、各々の国からの参加者による講演で紹介された。2日目には、(1)ホスピスと緩和ケア病棟のあり方、(2)癌末期症状のコントロールと家庭におけるホスピス・ケアという二つの分科会で日本のホスピスと緩和ケア病棟のあり方が討議された。わが国では、その頃、ホスピス自体が、「聖隷三方原病院ホスピス」があったくらいだ。最後に、日野原重明さんによる特別講演「オスラーの死の哲学―オスラーの文献からの考察」が行われた。
■座談会:ホスピスとは何か?―Dr. Billingsを囲んで■
 1992年8月28日(金)。19時30分から、東京プリンスホテル会議室において、「在宅ホスピスとは何か?」のテーマで、Dr. Billings を囲んで、日野原重明さん(聖路加国際病院院長)と星野恵津夫さん(帝京大学講師)にお話しいただいた。
 Andrew Billings (Assistant Clinical Professor of Medicine of Harvard Medical School)は、米国ボストンにあるTrinity Hospiceで、在宅ホスピスの実践活動を行っていた。1991年に、日野原さんはこのホスピスを訪れており、訪問診療に同行した経験を座談会の冒頭に話されていた。もう一人の星野恵津夫さんは、この前年、1991年に、Andrew Billings 著『進行癌患者のマネージメント―症状のコントロールと在宅ホスピス』を翻訳して、医学書院から出版されていた。座談会では、(1)在宅とは、(2)在宅ホスピスに必要なもの、(3) 在宅ホスピスの将来、という三つのテーマに沿って、お話しいただいた。「在宅ホスピスとは何か?―Dr. Billings を囲んで(聖路加国際病院院長 日野原重明帝京大学講師・第2内科 星野恵津夫)」のタイトルで、収録した座談会を、医学界新聞・第2060号(1993年9月20日付)に掲載した。
 日野原さんが作った日本で初めての独立型ホスピス「ピース・ハウス」が完成したのが1993年である。その頃、日野原さん自身もホスピスのあり方を模索していたに違いない。
第10回日本オスラー協会総会■
 上記の会議2日目終了後に、16時20分から「第10回日本オスラー協会総会」が開かれた。2日間にわたる一連の会議内容をまとめて、医学界新聞・第2015号(1992年10月19日付)で取材記録を紹介した。
(2019.6.6)

(12)「地下鉄サリン事件」1995年3月20日(月)

国会議事堂のある霞ヶ関を狙った地下鉄サリン事件が、1995年3月20日(月)午前8時頃に勃発した。当時としては平時の大都市において無差別に化学兵器が使用された、世界にも類のないテロリズムであった。

■私も通勤途上だった■

小田急線の新百合ヶ丘7時30分発の電車に、通例通りに乗った。代々木上原で千代田線に乗り換え、さらに国会議事堂で丸の内線に乗り換え、本郷三丁目下車の経路で通勤予定であった。このルートの通勤定期券を持っていた。しかし、珍しくその朝は登戸駅で、目の前の座席が空いて座れた。乗り換えが面倒なので新宿まで行った。新宿駅JR総武線に乗り換えて、お茶の水駅で、歩いて地下鉄丸ノ内線に乗り換えて、本郷三丁目へ行く経路で出勤した。
 午前8時40分頃に、本郷三丁目駅から徒歩5分の勤務先に着いた。会社に着く頃から何やら消防自動車や救急車のサイレンがけたたましく聞こえていた。近辺で交通事故でも起こったらしいと思っていた。このサイレンが地下鉄サリン事件勃発の音だったのだ。この日、偶然ともいえる通勤経路変更により、私は霞が関を通過する地下鉄車両に乗車しなかった。

■空前の地下鉄サリン事件

宗教団体オウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)の地下鉄車両内で午前8時頃に神経ガスサリンが散布された。事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため、営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方、千代田線、丸の内線で不審物・刺激臭の通報があったのみで、被害発生の確認が遅かったため、地下鉄の運航が継続された。このテロにより、営団地下鉄丸ノ内線日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡し、負傷者数は約6,300人に上るとされる。

■緊急事態に対応した日野原重明さん■

この事件により、東京23区に配備されているすべての救急車が出動したが、災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、救急車が来ない、来ても搬送が遅いという状況が見られたという。
 大きな被害の出た霞ヶ関から近い築地駅至近の聖路加国際病院は、日野原重明院長(当時)の方針により、大量に患者が発生した場合に備え、病室だけでなく院内のすべての廊下に医療機器を接続できる設備が完備されていた。日野原重明院長による、「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との英断による宣言のもとで、被害者の無制限の受け入れを実施した。聖路加国際病院は、被害者治療の拠点となった。

■編集会議―神経系細胞のアポトーシス

当日、3月20日(月)の夕刻、18時~19時45分に、東京・文京区本郷の勤務先社屋で、雑誌『神経研究の進歩』の編集会議を行った。出席者は、高坂新一(国立精神神経センター・神経化学)、彦坂興秀(順天堂大学・生理学)、真柳佳明(警察病院・脳神経外科)の三先生だった。会社側からは、EO次長に担当者MKさんと私の三人が出席した。雑誌『神経研究の進歩』第40巻2号(1996年4月号)の特集「神経系細胞のアポトーシス」の細目を編集会議で決定した。企画立案を、神経化学が専門の高坂新一さんにお願いした。ところで、アポトーシス(apoptosis)とは多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をよりよい状態に保つために引き起こされるプログラムされた細胞死のことである。ギリシャ語が語源で、apo-(離れる)、ptosis(

下降)に由来するのだという。
 その時には、サリン事件の重大さに私たちはまだ気がついてなかった。インターネットは始まっていたが、携帯電話はもちろんインターネットは未だ普及していなかったので、情報伝達は緩慢であった。 夕刻から編集会議を予定通りに挙行した。サリンという神経毒を使った空前のテロが起こったとは知らずに、「神経系細胞のアポトーシス」の特集を討議した偶然に驚嘆する。

(2019.7.1)

 

(13)「巨星墜つ!聖路加国際病院で献花する!」~2017年8月1日(火)

不滅だと思っていた日野原重明さんが亡くなった。

■巨星墜つ!■
 2017年7月18日(火)、午前6時33分。日野原さんが呼吸不全で死去。1911(明治44)年10月4日生まれの105歳だった。日野原さんの御葬儀は、7月29日(土)、午後1時から東京の青山葬儀所で行われた。日野原さんの想い出とその遺徳を偲び、私は自宅で合掌した。

医学書院で勤務した私の40数年の中で後半30年間には日野原さんとお目にかかることが多かった。
 「社長さんによろしくね!」お別れするときに日野原さんの口癖だった。社長以外は「全てのひとがその他大勢」なのだ。一方、私にとって日野原さんは唯一の人なので接触の中で多くを学び感じてきた。
 「わたし死なないかもしれない!」と、作家の宇野千代さんが何処かで書いていたのを読んだことがある。「日野原先生は死なないのではないか!」そんな気配すら感じさせる思いがお目にかかる度にあった。
 「福井くん、再来年の1月末の何時いつは空いているかね? アメリカに行くのだが一緒にどうですか? って言うのだから、参ってしまう。もう再来年の計画を立てているんですからね・・・」
 編集会議でお目にかかった折、上のようなことを、福井次矢さん(聖路加国際病院院長)から聞いたことがある。
■お別れに聖路加病院で献花■
 十数日後、8月1日(火)。私の東大病院への通院日で本郷に行った。その帰途、築地の聖路加国際病院内に献花台が設置されており献花できると知り、聖路加国際病院に行った。10時40分頃に地下鉄丸の内線の本郷三丁目を出て銀座から築地に向かった。病院には11時15分頃に着いた。病院内のチャペルの隣の部屋に祭壇が設置されており、写真の日野原さんが微笑んでいた。白い菊の花を手向けお別れのひと時を過ごした。私自身にとっても一時代が終わったように感じるひと時だった。
(2018.10.4)
                        〔了〕

<付記>
 週刊医学界新聞が2024年3月25日付けの第3559号を持って終わった。4月9日(火)発行より、「月刊医学界新聞」と名称と形態が変更になるとお知らせにでていた。その記事に触発されて、継続中のシリーズブログの中から、標記の関連テーマのみを選んで上記の「小文」として再掲載した。「週刊医学界新聞」への私からのオマージュである。