『羊をめぐる冒険』村上春樹 を随分まえに文庫本を買って読んだことがある。『ノルウエーの森』も読んだことがある。というよりも村上春樹の作品は殆ど読んでいる。ただ、どの本も読んでから人にあげたりしてしまった。『1Q84」という部厚い小説は、古本をネットで取り寄せて読んだが保存しなかった。ストリーというか物語が荒唐無稽で二回は読む気がしなかったのだ。『羊をめぐる冒険』は札幌(北海道)が舞台だった。文庫本がとってあるかもしれない。
<蓮見重彦という人が書いた『小説から遠く離れて』という本が1989年に出た時、僕お呼び僕の友人たちは興奮しました。
それは、1980年前後に書かれたいくつかの代表的な小説、井上ひさし『吉里吉里人』、中上健次『枯木灘』、丸谷才一『裏声で歌え君が代』、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』、そして村上春樹『羊をめぐる冒険』などが、見かけは違っても、「他人から依頼された『宝探し』という同じ構図を持っていると指摘した評論だったのです。>
蓮見さんは東大の教授で映画評論家でもある。上の本を知らないので、読んでもいなかった。『羊をめぐる冒険』は面白く読んだ記憶がある。鴻上さんはこう書いている。
<『羊をめぐる冒険』を読んだ時、「ああ、この作者は、とうとう大人になることを決めたんだ」と思いました。自分が、大人にんることを引き受け、そんなことを引き受けたくないのに、けれど、生きていく以上、引き受けなければいけない時が来て、そして、それを決心したんだと思いました。
この本は自分の青春を終わらせた宣言の本なんだと、直感的に二十代の僕は思いました。>
この辺りのことはよくわかる。私の青春の終わりは、めめしいといいうような詩を書くのを止めたこと、止めたというより書けなくなったこと。平凡なという職業に就けたことと、結婚して子どもを持って子育てという仕事を得たことだった。
『羊をめぐる冒険』がどういう小説家がわかってきた。鴻上さんは『なぞとき 村上春樹』(石原千秋、光文社新書)にも触れている。
「言いたいことをそのまま書くのだったら評論家になればいい。人はなぜ小説家になるのかといえば、言いたいことを隠すために小説家になるのである。」
鴻上さんは最後をこう結んでいる。
<・・・その終わりのない虚しさと切なさと苦しさを忘れるためには、いくつもの「物語」を創り、神話へのと進む方法もあるんだと気が付かされるのです。>
村上春樹を読み返してもいいと思う。