TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「書評」の書評を書くことにした

 「書評」とは、読んで面白いと思った本を褒めることだ、と誰かが書いていたのを読んだことがる。「貶す書評」とは本来的に在りうべくもないというのである。貶すのなら読まない、採り上げなければよいからである。しかし、医学書の書評では、概要を紹介して褒めておいて、最後に、惜しむべくはコレコレのことにも触れてほしかったとと指摘し改訂の折には言及して欲しい、と注文を付ける「書評」をよく見かける。

 閑話休題。最近は新聞を定期購読するひとが減っていると聞く。一方、新聞はニュースだけでなく、文化欄やスポーツ欄、株式や経済欄も含めて新聞である。特に面白いのが新聞のページ下欄にある帯状の本の広告である。これは日本の新聞の特徴であり外国の新聞ではあまり無いらしい。そうなのだろうか? 今度、外国の新聞を見てみたい。

 さて、本日は、朝日新聞(2020年6月20日)に載った本の紹介(書評)に触れたい。「読書」という文化欄「売れてる本」で、村上春樹著「猫を棄てる 父親について語るとき」について、福岡伸一さんがとても好意的な紹介文を書いている。「礼節ある墓標 読者にも反照」というタイトルがついている。実は、この本は、文藝春秋の2019年7月頃(後で確認する)に掲載されていたので、私は既に読んでいる。私のこのシリーズブログでも既に触れている。

 私は、件の書を小説ではなくて、村上春樹の自伝的エッセーとして読んだ。村上春樹は、彼が小説家となって時代の人となって以降も父と疎遠となったままであったらしい。件のエッセーを村上が父に歩み寄る「和解の書」として私は読んで、「 へー、村上春樹も普通の一人の息子なんだ」と思った。村上春樹には、自分の子どもがおらず、米国暮らしで溜まりに溜まった書物の類を託す系類がおらず、母校早稲田大学に寄付することにした、との噂を聞いた。

 <それにしても、なぜ村上春樹は今、父の部屋を開けるきになったのだろう。端的に言えば、残された時間に対する自覚ゆえのことではないか。個人的な理由から長らく疎遠になっていた父を見送った後、あらためて思い至ったことについて、作家はひとつの礼節ある墓標をたてておきたかった。それは、同時に私たち読者をも照らす。・・・>

 福岡さんの書評としての紹介文は、静謐で暖かい。これは「書評」の王道だろう。

 今日の新聞には、すぐれた読み応えのある書評が多かった。
  梯 久美子著『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する(角川)』に対する、保阪正康さん(ノンフィクション作家)の、「時を超え 国のはざまで縁結ぶ」という書評も読みこたえがあった。「サハリンは日本とロシアのせめぎあいの地であった。そうなのだろう。件の本には、農業学者ミツ―リのサハリン行き、チェーホフの「サハリン島」、そして宮沢賢治のサハリンの三つが重層的に語られているようだ。読んでみたい。

 さらに、堀部篤史が薦める文庫この新刊。加藤典洋著『村上春樹の世界』(講談社文芸文庫)の紹介文もよかった。「文壇の評価にとらわれず、作家の発言、批評テキスト、社会背景をパズルのように組み合わせ、作品の核心を探求する姿勢はまるでストイックな私立探偵のようだ。」読んでみたいと思わせる一文だ。

 本日は、「書評」の書評を試みとしてとりあげた。読みたい本がいっぱい出てくる。