本日は同伴者のYさんと永山まで歩いて行ってきた。1万三千歩をあるいた。夜に『町田康 男花嫁』(「文學界」7月号、2024年)を読んだ。これが雑誌「文学界」7月号のトップなんだ。何だいこれって感じ。「清水次郎長」の小説を前に読んだ。その流れなのかなと思う。話が荒唐無稽に見える。これも「ポストモダン」という手法なのかな。時代背景は江戸のようなのに、お金は「800万」「1千万」と現代の金額である。侠客(やくざ)と思しき登場人物は脇差ちか匕首を帯びているがスマホも持っている。なんだかよくわからんが、敬愛する町田康さの作品なので、「文芸」なんだと思う。「文學界」掲載なんだから純文学にはいるのだろう。巻末に以下の記載があった。
参考文献
「安東文吉基本資料Ⅰ」相川春吉(静岡県郷土研究会)
「遠州侠客傳」村本山雨楼(遠州新聞社)
町田さんは、「清水次郎長」を書いたときに、遠州の歴史と資料を読み解いてきて、 今回の物語を書くことになったのかもしれないと解釈した。
そんなことを考えていたら、少し前の朝日新聞夕刊(2024年10月30日)掲載の記事を思い出した。「文學界」編集長浅井茉莉子さんと「新潮」編集長の対談記事である。以下、引用して触れてみたい。
<出版不況といわれて久しく、雑誌の休刊が相次ぐ。いま、文芸誌が果たす役割とは何かーー。今年4月に、21年ぶりの交代で新編集長に就いた「新潮」(新潮社)の」杉山堅哉さんと、昨夏から「文學界」(文藝春秋)の編集長を務める浅井茉莉子さんに語り合ってもらった。>
リードの文章を引いておいた。見出しは、<「遅いメディア」の持つ力とは」というものだ。月刊誌は遅いとは思えないが、昨今のSNSに比べれば遅いということか。二人の編集長とも30代末から40代初めの若い人だ。文芸月刊誌の編集長が40歳そこそことは知らなかった。そういえば、私が医学界新聞の記者時代は30歳の初め、月刊雑誌の編集に携わったのは40歳だった。世の中はソの年代がまわしていると気が付いた。どんな」スタンスで編集しているんだろう。
浅井 「文學界」は、2024年1月号から岡崎真理子さんを新たなアートディレクターに迎え、表紙をはじめとしたデザインを一新しました。文字の多い雑誌なので、あえてシンプルに。雑誌全体がひとつのアートになればうれしいというも思いがあります。
杉山 「新潮」は今後も、小説と批評を中心とした作品主義の方針を続けます。文学に限らず、映画や演劇、アートも含めて広く同時代の表現を言葉で届けていきたい。
月刊誌は最近は「文藝春秋」しか買っっていない。両編集長の言葉を読むと、文芸雑誌も悪くないなと思った。「いまを書きながら普遍を語っている」「結論からこぼれ落ちるものを大事に」というのが、編集の心がけと語っている。「文學界」のリレーエッセイの「身体を記す」、「新潮」の「日記リレー」が面白いらしい。読んでみたい。
(この記事は、田中瞳子さんお構成による)
そういえば、むかし、「文芸」という雑誌(河出書房からかん?)があり買って読んでいたが今はない。「中央公論」はまだるかな?「新潮45」は廃刊になった。
最後に、本日の気になる本は「文學界」(7月号)の書評欄かだ。
(1)『露西亜文学の教室』(奈倉有里、文春新書、1450円)
小野正嗣さん(作家、早稲田大学教授)が、<文学を「体験」することの可能性>というタイトルで書いている。子の本は是非読んでみたい。「文学部出は役に立たない」という見地から、医学系出版社では少し前に実学(医学部、経済学部、法学部)を採用したりしていたことがるが、危うい判断だと今は思う。「文学は実学である」という詩人の荒川洋治さんの本を読んだころから、私も「文学は実学」であるとよく解ってきた。工学が川に橋を架けるとした、文學は「魂に橋を架ける」のである。小野正嗣さんは、『九年前の祈り』で2015年に芥川賞を受賞している。読んでいるのだろうか?忘れた。
(2)『DJヒロヒト』(高橋源一郎、新潮社、3800円)
「優しい死者たちの学校」というタイトルで、千木良悠子さんが紹介している。なんか面白い本のようだ。高橋さんは好きな書き手なので読んでみたい。