TomyDaddyのブログ

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「私のC型肝炎物語」 第5章: MSD社の治験に参加―(11)服薬終了から再燃まで!

(11) 「私のC型肝炎物語」 第5章: MSD社の治験に参加― 服薬終了から再燃まで!

 

2015年6月27日(土)の夕刻に母が亡くなった。29日までに葬儀の手順を整えた。翌30日は治験終了後の初の受診であった。

■東大(HCV内科)受診日■

  • 2015年6月30日(火): 治験後1日目。

(85) 6月30日(火):起床6時1分。昨夜は寝る前に目覚ましを6時5分にセットした。しかし、目覚ましのなる前の6時1分に目覚めて起きた。本日は朝食を食べないで行く。京王線若葉台駅まで歩いた。若葉台発6時49分の始発に乗った。新宿には7時39分頃に着いた。

東大病院には8時ころに到着した。総合受付の列の前から5番目くらいに並んだ。受付開始は8時10分からなので暫し待った。受付番号は32番であった。2階に上り、内科受付開始の8時25分を少し待った。そのあと25番の治験の部屋に行って血圧を測ろうとしていると、CRC永井さんがきた。血圧、体重、体温を測ってから8時45分くらいに永井さんと一緒に採血に23番検査室に行った。そのあと心電図と腹部(肝臓)超音波検査を生理検査室に行って受けた。超音波検査の後で、肝臓の硬さを測るファイブロ・スキャンの検査を受けた。その直後に内科診察室(246番)からの呼び出しベルが鳴った。25番に戻って永井さんと一緒にすぐに246番に移動した。浅岡先生の診察室前で5分くらい待機した。血液検査の結果は、AST、ALT、γ-GTPは27,17、25であった。数字から見る限り順調に推移している。

■激動の日々―妻のY子が倒れた■

  • 2015年7月2日(木)~3日(金):

2015年7月2日に母の告別式を執り行った。その翌日、7月3日の早朝に妻のY子が脳出血で倒れた。午前8時頃に救急車で横浜総合病院に入院した。搬送された横浜総合病院救急救命室における初期の診断はくも膜下出血であった。この間の激動の日々のことはここでは詳述しない。余りの過酷な日々であった。

■治験服薬終了後29日目■

  • 2015年7月28日(火):

(86) 7月28日(火): 起床6時00分。午前6時45分、朝食をとらずに家を出た。若葉台から6時59分発で新宿へ向かう。7時55分頃に新宿に着く。西口のカフェに入り、モーニング(650円)で朝食にした。8時10分に新宿をでて8時30分頃に東大病院に着いた。午前9時少し前に治験の部屋に着いた。水を飲んでいると、CRC永井さんが来た。直ぐに体重を量り(61.5キロ)、心電図の測定に行く。戻って血圧を測り(9時13分頃)、そのあと永井さんと採血に行き、試験管に9本取った。9時30分頃に治験の部屋に戻り永井さんと少し話す。そのあと治験のフロアーで11時頃まで待機していた。午前11時15分頃に消化器内科246番の前で診察を待つ。かなり待って呼ばれたのは12時30分頃であった。

■治験薬は実薬だった■

浅岡先生からの説明は以下のようだった。治験薬は実薬群であった。AST、ALT、γ-GTPは、25、16、27で前回よりも下がっていた。γ-GTPは前回よりもポイント2だけ上昇していた。血小板(PLT)が低いままなのが気になる。

浅岡先生の面談を終えて、13時頃に支払いを6番で済ませた。そのあと地下のレストラン三四郎で煮魚定食(900円)を食べた。13時30分頃には、1階で会計を済ませ、薬も処方してもらい、14時前には受診は終了した。

このあと本郷三丁目から大手町経由で九段下へ行く。本籍のある千代田区役所で、義母HTさんの戸籍関係書類(全部事項証明、除籍全部事項証明)を取得したのが14時36分であった。このあと九段下から都営新宿線経由で若葉台駅に15時30分過ぎに着いた。はるひ野には16時頃に帰宅した。この日は、妻が倒れてから初めて、横浜総合病院へY子の面会に行かなかった。17時30分頃に庭の植木に水やりをした。
 18時50分頃に夕食を食べていると、近隣のIさんが、煮かぼちゃを持ってきてくれた。ビール2缶と、次女YSの持ってきてくれたカルパッチョとHIさんの差し入れで夕食を一人で食べた。21~22時頃まで居眠りをしてからシャワーを浴びて床に就いた。

■治験の失敗はこの日に判明していた■

  • 2015年7月31日(金) 治験後32日:

(86) 起床6時。朝食7時。午前中は家にいてパソコンのアップグレード作業を行ったが失敗した。午後13時頃に東大病院のCRC永井さんから電話があった。
  「東大の永井さんから電話あり」としか手帳に書かれてない。7月28日(火)の診察の際の血液検査結果は横ばい状態で悪いものではなかった。「浅岡先生からのお話しがある」としか永井さんは言わなかったのではないだろうか?
 この電話で次週8月4日(火曜日)の午前8時30分に東大病院に行くことを約束した。想定外の電話がきたので、「治験は失敗したな」と予測がついた。

恒例の午後の面会に横浜総合病院へ行く前に柿生の横浜銀行で固定資産税を支払った。15時13分頃に病院について、Y子にアイスクリームと蜜柑を食べさせた。少し一緒にいた。
この日の午後には次女YSと孫二人が17時12分頃に柿生駅に着くと言うので迎えに行った。少し早めに病院を出て王禅寺の旧家に寄って窓を開けてから庭の植木に水まきを行った。予定の時間に柿生の駅でYSたちを拾って横浜総合病院に戻った。Y子の夕食の世話をしてから、18時20分頃に帰ろうとしていたら妹のM子が来たので、後を頼んで帰路についた。19時30分頃にはるひ野華屋与兵衛でYS、J、Rと四名で夕食を食べた(4015円)。J君とシャワー、RはYとシャワーを浴びる。YSたちが泊まってくれた。ビールを1缶飲んで寝てしまった。この日に義母の友達で国分寺市に在住のDさんから、20時40分頃に電話があった。

■終了4週間後-HCVウイルス再燃■

  • 2015年8月4日(火)治験後36日目:

(87) 起床6時00分。洗面だけして6時28分に家を出た。若葉台から6時48分頃の始発で新宿へ向かった。7時50分頃に京王線新宿駅の改札から出た近くの店で、お握り2個と味噌汁を食べて、朝食後の薬(ブロプレス、グリミクロン)を飲んだ。食事を済ませて、大江戸線で本郷3丁目へ向かう。8時20分過ぎには東大病院に着いた。午前8時28分に受付を済ませ、治験の部屋25番で待機していると永井さんがやってきた。血圧(117/72/76)、体温(36度4分)を測ってから、8時48分頃に内科診察室246番で待機した。朝の一番で浅岡良成先生の診察に入った。

■ウイルスが一度は消えたのにどうして?■

「残念な結果になりました!」開口一番の言葉だった。「HCV-RNAを検査会社SRLにおいてPCRで測ったところウイルスが再燃して増加していることがわかりました」とのことであった。

治療は失敗であった。この日は内科受付も行っていない。治験の結果を聞いたのみであった。面談後には直ぐに帰途に就いた。小田急線経由ではるひ野駅には午前11時頃に戻ってきた。駅前のクリシマで、寿司、春巻き、牛乳を買ってから帰宅した。11時35分頃から、一人で早めの昼食を食べた。少し休んでから、義母さんの年金関係の提出書類の準備を13時30分から15時15分頃まで行った。準備した書類を新百合ヶ丘の郵便本局で投函してから横浜総合病院に行った。

16時20分頃に到着すると義妹のM子が見舞いに来てくれていた。17時頃には、M子に帰って貰った。18時頃に三女のRHとKHがやってきた。Rたちは静岡からの仕事の帰りなので18時頃には帰って貰った。18時20分~19時頃までY子の夕食の世話をした。18時50分頃に、長女のNからメールが来た。8月7日(金)、午後15時30分頃に新横浜駅からあざみ野駅に着いて、病院に面会に来るとのことであった。了解の返事をした。その後、19~19時30分頃まで歯磨きの世話をしてから帰宅した。この日は、Y子の退院後に必要かもしれないので、エレベータ設置の見積もりが出ていたので設計士のNさんが相談に来ることになった。そのための日程調整をメールで行った。8月13日(水)の午後15時頃にNさんが横浜総合病院に見舞いに来てくれることになった。

(2018.12.14)

(「私のC型肝炎物語」 第5章: MSD社の治験に参加 ―〔11〕 服薬終了から再燃まで!)