TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(130) 楢林博太郎さんとインタビュー「ある神経学者の発想と足跡を辿る」~2000年8月9日(水)

(130)楢林博太郎さんとインタビュー「ある神経学者の発想と足跡を辿る」~2000年8月9日(水)

 2000年8月9日(水)。13時~15時まで、東京・目黒の楢林クリニックを初めて訪れた。訪問の目的は携わっていた雑誌「神経研究の進歩」のシリーズ企画「温故知新」で、楢林博太郎先生(順大名誉教授・神経学)にインタビューするというものであった。楢林さんは、東京・目黒の「楢林クリニック」において診療を行っていた。

■楢林クリニック(目黒)を訪問■
●2000年8月9日(水):

楢林さんには、神経伝達物質の研究で著名なアルビド・カールソン(Arvid Carlsson)博士が来日した1992年10月23日(金)に、「神経伝達物質―最近の進歩」という座談会を行った時に、お会いしていた。このことは既にこのシリーズブログで触れた。従って楢林さんにお目にかるのは二度目であった。

インタビュー企画の概要は、金澤一郎先生(東大教授・神経内科)と相談して詳細を煮詰めた。金澤先生は、東大教授であったが、その頃、美智子・平成皇后の主治医をつとめていた。雑誌「神経研究の進歩」の編集会議でお目にかかると、金澤さんが好んで締めていたエンジ色のネクタイに滲みが見えたりした。飾らない磊落なお人柄の方だった。

■ある神経学者の発想と足跡を辿る―楢林博太郎先生に聞く■

1922年(大正11)年、兵庫県生まれの楢林先生は、昭和43年から順天堂大学教授(神経学)であったが、昭和63年3月に既に定年を迎えられていた。パーキンソン病の研究の権威として著名であった。とくにパーキンソン症候群に対する定位的淡蒼球手術の業績で知られていた。この日の取材では楢林さんから、論文のコピーを初めとして古い研究資料をお借りしてインタビュー構成を立案した。その結果、長年にわたる研究の折々に共同研究者として携わった若手の神経学者をインタビュアとして委嘱した。
 2000年秋から翌2001年初めにかけて座談会形式でインタビューを四回にわたり収録した。第1回のインタビュアは金澤一郎先生で、「神経研究の進歩」第45巻3号(2001年6月)に掲載した。第2回は金澤一郎、大江千廣の両先生が聞きて(45巻4号収載、2001年8月)。第3回は金澤一郎、横地正之、近藤智善の三先生が聞きて(45巻5号収載、2001年10月)。第4回は金澤一郎、大島知一、今井壽正の三先生が聞きて(45巻6号収載、2001年12月)であった。いま手元に掲載誌がないので内容まで踏み込めないが、インタビューは、江戸時代の蘭方医楢林宗建に遡る「医の系譜」から直近のパーキンソン病研究まで及んだ。
 インタビュー掲載誌を、楢林先生にご覧いただくことは残念ながらできなかった。2001(平成13)年3月18日に、楢林博太郎さんは78歳で生涯を閉じられた。
(2019.7.6)
(私の「医人」たちの肖像―〔130〕楢林博太郎さんと「ある神経学者の発想と足跡を辿る」~2000年8月9日)