TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

本が私を睨むのか微笑みかけてくるー『認知症の「みかた」』(医学書院、2009年)を読む

 「認知症」になりかけているのかな? 最近、物忘れと失敗が多い。川崎市麻生区の「やまゆり」という市民活動の講座の一つ「シニア講座(全五回)」に昨年末に申し込んだ。受理されて、今年(2003年)1月14日(月)が第一回であった。出席した。Aグループに配属された。第2回は1月21日(火)であった。それが、すっかり出席を失念してしまった。翌日、水曜日に担当者の佐藤さんから「昨日はご欠席でしたが、資料は次回お渡しします」とのメールをいただいて気が付いた。昨日、1月26日(木)に家内のY子と多摩センターにある遺跡発掘の「縄文村」に行った。11時30分頃について、展示館を暫く見学してから隣接の縄文村遺跡をを訪れた。其処には、三棟の縄文住宅が復元設置されている。最初に、A棟をみて、次に湧水跡を見学した。寒い日であった。次に、B棟縄文住宅を見学した。その前は西日がさして温かった。ベンチで一休みした。その時にスマホのメールを確認した。合気道のKさんから、5月のスポーツセンターの当選確認を終了した旨の報告メールが届いていた。ベンチでKさんに返信メールをした。その折に、ウエストポーチから、パスモとカード類の入っているファイルを取り出して確認した。一休みのあと縄文住宅C棟を見学した。それから、縄文村を後にして、多摩センターの京王線の駅下の大衆食堂でランチした。14頃に多摩センターに戻って駅に入ろうとした。するスイカのはいっているカード入れがウエストポーチのポケットない。落としたのだと気がついた。Y子に先に帰宅するように言って、急いで縄文村に戻って、縄文住宅B棟のベンチの辺りを探した。カード入れの落し物はない。スマホのメール送信履歴を見ると、Kさんに返信したのは11時50分であった。既に2時間が経過している。この日、縄文村への入場者は少なく私たちの他は老人(男性)が独りだけだった。B棟の前のベンチは陽だまりなので、同じ所に坐っているのが見えた。拾われてしまったのかもしれない。急いで、展示棟の受付に戻って、「落し物はないですか」と尋ねた。「ない」という。そこで、届けるべく、多摩センターの交番の場所を聞いた。念のために再度、縄文村に戻って、B棟前のベンチの辺りを探した。すると、左前方の方に、ご老人がひとり歩いていた。もしかしたら、先ほどのひとかと思い声をかけた。「すみません、この辺にカード入れが落ちていませんでしたか?」応えがない。無言である。再度、近ついて、同じこと尋ねた。すると、「うーうー」と言って、手で左前方を指した。口が聞こえないようだ。指した方向をみると、私のカード入れが草原の上に落ちていた。拾った。老人は黙ってあるいて行ってしまった。「あったのだ。」これは奇跡というしかない。もう一つの失敗もあった。緑内障の目薬の残りが近ついてきた。眼科に行かないといけないと思い、診察カード入れを確認した。すると、なんと、今年(2023年)の1月6日午前9時30分に「視野検査」の予約が入っていた。2022年の手帳には書いてあったのであろうが、2023年の手帳にもスマホにも書いてなかった。全く失念していた。呆け老人もいいところだ。かなりやばい感じがしている。

 さて、こんな思いで「認知症予備軍」に入った私の心理状態はあまりよくない。帰宅して書棚をみると、『認知症の「みかた」』(医学書院、2009年)が目にとびこんできた。こんな本もあったのだ。これは樋口覚君が担当した「神経心理学コレクション」というシリーズ企画書籍の一冊である。2009年11月の本なので、出た当時、私は現役社員であったので一冊貰って読んだ記憶がある。この本は、三村 将(当時、昭和大学准教授、のちに慶応大学教授)、山鳥 重(神戸大学院教授)、河村 満(昭和大学享受)の三者の座談会形式で作った本なのだ。2009年から2023年の現在まで14年という月日が経ってる。「序にかえて」を読むと、この本は、もともとは田辺敬貴さん(愛媛大学教授・神経内科)と三村 将さんと対談形式でやろうとしていた企画だったんだという。ところが、2003年に第27回日本神経心理学会会長を務めた、あとで田邊さんは急逝された。何時亡くなったのか、調べても出てこない。田邊さんは、高知県の出身で、阪大医学部卒であり、愛媛大学神経内科の教授に転じていた。三村さんの序文にこうあった。

 <もはや実現不可能になってしまったが、この対談企画は何か遺された宿題のような感じになっていた。その気持ちはおそらく田邊先生の盟友であった医学書院の樋口 覚氏も同様だったのではにかと推察している。ある日、樋口氏から。この対談を山鳥先生、河村先生との鼎談という形で復活してはというご提案をいただいた。

 文芸評論家で、歌人でもあった樋口君が、すぐれた医学編集者であったことは、誰も取り上げない。そこで、敢えて私は取り上げることにした。樋口さんの仕事を、再検証しながらこの本を再読してみたい。認知症の研究は、2009年~2023年の今まで、少しは深まってはいるが実はまだ新しい課題だと思う。

 

『勉強の哲学ー来たるべきバカのために』(千葉雅也, 文藝春秋)を読み始めたが中断するの巻き

 『勉強の哲学ー来たるべきバカのために』(千葉雅也, 文藝春秋)を、先日から『「知の技法」入門』と併行して読み始めていた。しかし、ここで一旦、中断しようと思う。理解できないのだ。
 著者の「はじめに」は分かった。

<この本は、勉強が気になっているすべての人に向け書かれています。>
  ということなので、私より34歳くらい若い42歳くらいの著者だが、読者対象には私も含まれるのだ。

 <まず、勉強とは、獲得ではないと考えてください。
  勉強とは、喪失することです。
  これまでのやり方でバカなことができる自分を喪失する。>

 こういうことであるのなら、この本を読んでみたいと思って読み始めた。

 第1章 勉強と言語―言語偏重の人になる

 勉強とは、自己破壊である

 目的、環境のコード、ノリ

 自分は環境のノリに乗っ取られている

 自分とは,他者によって構築されたものである

 <生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない「裸の自分」など、ありえません。どこまでも皮を剥いでも出てくるのは、他者によって「つくられた=構築された」自分であり、いわば、自分はつねに「着衣」なのです。自分は「他者によって構築されたもの」である。>

この辺まで読んできて、何とか理解できていたように思うのだが・・・。

 二つのノリがぶつかる狭間から、言語の世界へ

 言語の不透明性

 道具的/玩具的な言語使用

 自分を言語的にバラス

 深く勉強するとは、言語偏重の人になることである


 この辺まできたらもう文脈についていけない。理解できない。

そこで、千葉雅也さんという人はどういう人か調べてみた。
 1978年12月14日、栃木県生まれの44歳。2019年に『デッドライン』という小説を書いた。第41回野間文芸賞新人賞受賞、これが第162回芥川賞候補、2020年に第33回三島由紀夫賞候補、2021年に『マジックミラー』が第45回川端康成文学賞、2021年に『オーバーヒート』が第165回芥川賞の候補になる。最近は、小説をたくさんかいているんだ。

『勉強の哲学』をやめて、はじめに小説を読んでみることにする。頭のいいひとの文章はおもしろいのだが、『勉強の哲学』はラカンとかフーコーとか知らないとわからないのかもしれない。それとも、おれがバカすぎるのか?

「認知症診断 PET検査でより正確にー慶応大開発 アルツハイマ―か否か見極め」 興味深い記事だ

 昨日、エーザイが開発したアルツハイマー病の薬について触れた。本日は標記のようなとても興味深い記事を読んだ。米国の専門誌ニューロロジーに掲載されたんだという(瀬川茂子さんの記事)。

 <慶応大のグループは、アルツハイマー病による認知症と、ほかの原因による認知症を見極める手法を開発した。脳へのたんぱく質の異常な蓄積を画像化できる陽電子放射断層撮影(PET)検査を2種類使う。原因に応じて、適切な薬に変えるなど、診療が改善できる可能性がある。>

 つまり、アルツハイマー病の原因とされるアミロイドベータ(Aβ)とタウという2種類のたんぱく質の蓄積を測ろうとする手法だ。

 <グループは今回、対象者の人(42人)②軽度認知症障害の人(25人)、③認知機能が正常な人(40人)の三つの集団に分けたうえで、AβとタウたんぱくをPET検査で調べた。>

 <その結果、①では、アルツハイマー病からほかの認知症になるなど、10人に診断の変更があった。②では、当初、記憶力の低下がみられることなどから、将来アルツハイマー病になるリスクがあるとされている人は23人いた。だが、PET検査の結果、このうち11人は脳内にAβの蓄積はなく、アルツハイマ病ではない認知症になるリスクがあると診断された。軽度認知症障害よりも進行した状態の人もいて、3人はアルツハイマー病、1人は別のタイプの認知症と診断された。③でも、認知機能が正常とされていても、検査してみると、脳にAβが蓄積していてアルツハイマー病になるリスクがあるとされた人が4人、タウだけ蓄積していてアルツハイマ―病ではない認知症のリスクがあるとされた人が6人いた。
 全体として、35%の診断が変更となり、30%で薬の種類や量の変更など治療方針が変わった。 「2種類のPET検査により、診断が正しくついて、アルツハイマー病の薬を適切に使えるようになるなどのメリットがあるとわかった」と伊東大介特任教授は話している。>

 <コメント> 興味深い記事であるが、臨床で使用しても意義があるのかな。

 

 

 

「アルツハイマ―薬開発 ”標的”は」という記事を」興味深く読んだ

 

「アルツハイマ―薬開発 ”標的”は」という記事を」が朝日新聞朝刊(2023年1月24日)に出ていた。野口憲太、後藤一也、瀬川茂子さんという三人の記者が纏めたものだ。
 これは、エーザイなどが開発して、米国で1月6日に承認されたアルツハイマー病の薬「レカネマブ」のことだ。この薬は、アルツハイマー病の原因とされるアミロイドβを標的とする薬として、2021年に迅速承認された「アデュカヌマブ」に続く新薬2例目だ

アミロイドβ

 アミロイドβは、脳内の神経細胞の外にたまる物質(たんぱく質)なんだ。その正体は,1980年代に判明したんだという。
 それでは、アミロイドって何なんだ。調べてみた。アミロイドは、ある特定の構造をもつ水にとけない繊維状のタンパク質である。器官にアミロイドが異常に蓄積すると、アミロイド症などの神経変性疾患の原因になると言われている。
 合気道の友人のHさんは、全身性アミロイドーシスという病気で入院していた。この病気は、繊維構造をもつたんぱく質であるアミロイドが、全身臓器に沈着することによって機能障害を引き起こす一連の疾患群であるんだという。
 ■タウたんぱく■
 神経細胞のなかに蓄積するのが「タウたんぱく」である。タウは神経細胞のかたちを安定に保つ機能などがある。これが異常な状態になると細胞内でかたまりをつくる。異常なタウがすでに多く蓄積していれば、薬でAβを除去できても、アルツハイマ―の症状改善にはつながらないと考える研究者もいる。タウは、細胞内にたまるため、薬が近つきにくい。タウを標的とした薬の開発は難航しているんだという。

アミロイドβ」と「タウ」の違いが分かった。アルツハイマー病の薬の開発は、まだ難しそうだね。

 

「精神医学と宗教 魂に迫る文学」ー作家 加賀乙彦さんを悼むー(沼野充義)さんが書いていた

 作家の加賀乙彦さんが亡くなったのはつい最近だ(2023年1月12日)。誰かが追悼文を書くだろうと思っていた。本日の朝日新聞朝刊(2023年1月24日)にロシア文学者の沼野充義さんが標題のタイトルで追悼を寄せていた。「寄稿」となっているので、依頼ではなくて沼野さんの方から寄稿したのだろか?それと沼野さんの肩書が「スラブ文学者」となっていた。沼野さんといえば、元東大のロシア文学教授ではなかったかな。ロシアのウクライナ侵攻以降(いやそれより前か)ロシア文学の旗色は悪い。人気がない。私がでた北海道大学文学部ロシア文学科は、学科そのものがなくなってしまったようだ。ロシア文学もロシア語も人気がない。北大には以前は「スラブ研究所(通称スラ研)」があり、ロシアとの関係に際して一家言を申す人が複数おられた。ところが、最近のロシアの戦争に対しても、地理的に一番ロシアに近い北海道大学から「ロシアとウクライナの戦争」について分析的な発言も論考もない。沼野さんは何処かで言及していたと思う。
 さて、スラブ研究家の沼野さんが、逸早く加賀乙彦さんの死に際して追悼文を寄せたのは何故だろうか?関心を持った。加賀乙彦さんの作品は、「帰らざる夏」と「頭医者」くらいしか、わたしは読んだことはないのだが、本質的な文章を書くひととの憧憬をもっていた。今回の沼野さんの文章は簡潔に加賀乙彦さんを紹介してくれている。記憶と記録のために多くを引用しながら纏めておきたい。

 <作家の加賀乙彦氏が1月12日に93歳で亡くなった。長い人生を精力的に生き、多くを書き、多くを成し遂げたひとだった。この大きな人間の死とともに一つの時代が終わったという喪失感がひしひしと迫ってくる。まさに、巨星落つ、である。>

 加賀さんは、1929年4月22日生まれである。加賀さんの死因は「老衰」と訃報にでていた。93、94歳くらいで亡くなる方の死因に老衰が散見される。がんとか心疾患とか確たる病を持たない時に、「老衰」と認定されるのだろうか?

 <加賀氏は1943年名古屋の陸軍幼年学校に入り、軍国少年としてのエリート教育を受けたが、卒業前に終戦を迎え、戦後は一転、旧制都立高等学校に進み、ここでは学校の勉強をそっちのけで文学を読みふけったという。そして東大医学部に入学、精神医学を学んだ。卒業後は東京拘置所の医務技官として多くの死刑囚に接し、1957年にはフランス政府国費留学生として渡仏、精神医学の研鑽を積んだ。帰国後は東大助手、上智大学などの大学での職歴を順調に積むかたわら、医学研究者としての経験を生かして小説を書き、やがて大学の職を辞して筆一本の生活に入った。>

 沼野さんが、加賀さんの初期の経歴をなぞってくれた。名古屋の陸軍幼年学校で軍国少年としてのエリート教育を受けた。ここのところは、お世話になった伊集院俊隆さんと同じである。伊集院さんは1929年生まれだから生きていたら94歳くらいだ。伊集院俊隆さんも名古屋幼年学校出張なので、もしかしたら加賀さんと同じ時期に過ごしたのではないだろうか。陸軍幼年学校と言えば超超エリート学校だと聞いた。加賀さんの初期の小説「帰らざる夏」は、四年学校の時代も含めた加賀さんの少年時代から書き起こしていたのではなかったろうか?美少年だった加賀さんは陸軍幼年学校で少年愛の対象になったという成長の物語だっと記憶する。読みかえしてみよう。加賀さんがフランス政府国費留学生として、フランスで学んだとは知らなかった。小説「頭医者」ではフランス政府国費留学生として留学に三回くらい失敗する医学生が出てくる。このモデルは後に神経解剖学の泰斗になられた萬年甫さん(1923年~2011年)だと聞いたことがある。加賀さんは一発でフランス政府国費留学に受かったのだろうか?

 <作家としての加賀氏は、日本文学大賞、大佛次郎賞芸術選奨文部大臣賞などの大きな賞を次々に受け、文化功労者芸術院会員にも選ばれ、多くの読者に恵まれた。だから決して「孤高」というわけではなのだが、同時代の多くの作家にはないような、際立った特徴があり、それが加賀氏の存在を特別なものにしている。>

 加賀さんの小説を余り読んでいないので、上記のように纏めてもらうと理解しやすい。

 <第一に、既に述べたように、加賀氏は長年精神医学を研究し、その専門的見識を小説中のl人間観察に活かした。作家としてのデビュー作『フランドルの冬』精神科医としてのフランス留学体験に基づくものだったし、代表作の一つ『宣告』は、拘置所で出会った死刑囚正田昭をモデルとして、刑死する運命の人間の魂の奥底まで洞察した大作だった。>

『フランドルの冬』を読んだような気もするが覚えていない。こんど読んでみよう。

 <第二に、加賀氏は上記の正田昭が獄中でカトリックに入信して信者であったことをきっかけに、後に自らも敬虔なカトリック信者となり、それが晩年の創作や思想に少なからず影響を与えた。加賀氏にキリシタン大名を主人公とした『高山右近』などの小説もあり、キリスト教者として宗教的思索を深めたことは、人間の生と死について深く透徹した見方をすることにつながった。>

 この辺の件を読むと、キリスト教をしらない私にはわからない。加賀さんは遠藤尾周作さんとの接点はなかったのだろうか?

 <第三に、若いころからフランスやロシアの小説、特にバルザックドストエフスキートルストイなどを耽読した加賀氏は、質量ともに圧倒的に豊饒なヨーロッパの小説に範を取り日本には稀な本格的長編作家となった。代表作の一つ、『永遠の都』(新潮社文庫で全七巻)は、昭和10年から22年までの日本を舞台にし、激動の戦争の時代とその中で生き抜く様々な人間たちの群像を描き出し、まさに加賀版『戦争と平和』の趣がある大河小説だ。同じくらい大規模なその続編『雲の都』(全五巻)は加賀の分身ともいうべき人物を中心に、1952年に始まり2001年までのほぼ半世紀の戦後日本をカバーする。>

 加賀さんの、後半の小説『永遠の都』「雲の都』も全く読んでいない。この頃、加賀さんは本郷の「本郷ハウス」に住んでいたのであろうか。加賀さんの仕事は、たとえば大江健三郎とはどう違うのだろうか。(大江健三郎は、1935年生まれだから、加賀さんのほうが6歳も年長なのだ。)

 <加賀氏はこのように、科学(医学)と宗教の両方に深く通じながら、言わば日本人離れした骨太の文学の世界を築いた。主義主張の面では、強い信念をもった死刑囚反対論者であり、また「脱現発社会をめざす文学者の会」の発足に尽力し、日本ペンクラブ副会長としても活動した。しかし、気難しい堅物では決してなかった。私は最晩年に少しだけお付き合いがあったが、私にとって加賀さんはこの世の美しいものをこよなく愛し、年少の友人たちと談笑することの好きな、そして茶めっ気もあるお爺ちゃんだった。いまごろ天国でフランスやロシアの文豪たちと美酒を酌み交わしているのではないだ老化。>

 最後の件で、なぜ沼野さんが加賀さんの追悼を書いたのかが分かった。晩年に接点があったのだ。加賀さんの小説を読み返してみたいと思う。

<コメント>
 標題の沼野さんの寄稿文を全文引用しながら、勝手に感想とコメントを追加しながら読んでみた。面白かった。全文引用手法は、高橋源一郎さんの方法を真似した。感銘を受けたり感心した文章は、全文引用がとても役に立つのである。沼野さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

『2.サルトルから学ぶ二十世紀思想』(「知の技法入門」第3章 誰にもわかる「実存主義・構造主義・ポスト構造主義」)まできた

 『知の技法入門』(小林康夫大澤真幸)を、わからないなりに読んでいる。
 第3章の「サルトルから学ぶ二十世紀思想」まできた。

 2.サルトルから学ぶに二十世紀思想

 実存主義構造主義ポスト構造主義、近代の中で資本主義という問題浮かび上がり、そこに「主体」というキーワードをいれてみてきた。

 サルトルが忘れ去られた経緯が書いてある。しかし、サルトルという虚の焦点を入れて見直さないと、二十世紀思想はとてもわかりにくく「なってしまう。

 3.主体は結局どうなったか?

 第4章 自然科学と人文科学のインターフェース

大澤 ・・・・・文科と理科の分離の起源は、18世紀後半の西洋における、哲学と科学の間の「離婚 Divorce」にあります。この離婚にそった形で、近代の大学ができました。・・・中世の大学には、神学、医学、法学、哲学の四つの学部があった。この哲学部が、二つに分かれたわけですね。科学を受け持つ学部と、その他の学科を受け持つ学部に、です。後者が人文学と呼ばれたりすることもある。…こうして、「二つの文化」、つまり文科と理科の分割が定着した。・・・

 この辺も、一応は読んでみた。 興味もった件を書きぬいた。中世の大学で、医学が独立していたんだ。私のさいきんの捉えでは、医学は人間学であり、科学であり文学でもあるのだと思う。

 Ⅲ 「知の技法」とは何か?
 「何のために知るのか」という項目で、大澤さんのまとめが分かりやすかった。

  知ることは、
  ① 直接的に役に立つことがる。
  ② 知ることや発見のおもしろさがある。
  ③ 知ることは、生きる上でのある種の解放である。
 ⇓

 最後のコメント:

 曲がりなりにも読んでみたが、こういう知識人(頭のいいひと)の話すことは目から鱗の感じはある。一方で、「これ日本語で喋っているの」というくらいに理解できない。特に、小林さんの言葉は、殆どチンプンカンプンの部分がった。この本は、2014年に出ている。今も若い読者に読まれているのだろう。この本を読んで、基礎数学の本を読んでみたいと思った。無理数なんって覚えていない。√2って何だったかな、というくらいだ。それと、大澤さんの発言をよんで、やはり、『資本論』をもう一度読んでみたいと思った。
 ということで、この本は図書館に返すことにする。それにしても、俺って大学を出たけれど知識じんではないと再確認した。

片手取りからの入り身の稽古での気づきあり

 片手取りからの入り身の稽古に気づきあり。山本Hさんに教えていただきました。忘れないように要を書く。
▶左半身の左構え:
 (1)握られた手首の親指を支点に捻りながら、右掌を相手の腕間接に添えて推すようにする。相手の右手が外れる。
 (2)もう一つの技: 右手を相手の腕のところに差し込んで、その位置を支点にして、腰を捻り回転すると相手の手を切ることができる。
 (1)(2)ともに、片手取りから入り身に入る場合の基礎動作である。

 本日も「美しい稽古」を目指した。意識のなかで、「美しい稽古」と口ずさむと、自然に背すじが伸びてくる。合気道は、本来は剣道の動きと全く同じである。したがって、背筋を前かがみにしたりしてはならない。背筋を伸ばして体幹は重力に任せて垂直にする。技をかけるに際しては、手に剣をもっているつもりで円を描くように余分な力を入れないで技を繰り出す。