『勉強の哲学ー来たるべきバカのために』(千葉雅也, 文藝春秋)を、先日から『「知の技法」入門』と併行して読み始めていた。しかし、ここで一旦、中断しようと思う。理解できないのだ。
著者の「はじめに」は分かった。
<この本は、勉強が気になっているすべての人に向け書かれています。>
ということなので、私より34歳くらい若い42歳くらいの著者だが、読者対象には私も含まれるのだ。
<まず、勉強とは、獲得ではないと考えてください。
勉強とは、喪失することです。
これまでのやり方でバカなことができる自分を喪失する。>
こういうことであるのなら、この本を読んでみたいと思って読み始めた。
第1章 勉強と言語―言語偏重の人になる
勉強とは、自己破壊である
目的、環境のコード、ノリ
自分は環境のノリに乗っ取られている
自分とは,他者によって構築されたものである
<生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない「裸の自分」など、ありえません。どこまでも皮を剥いでも出てくるのは、他者によって「つくられた=構築された」自分であり、いわば、自分はつねに「着衣」なのです。自分は「他者によって構築されたもの」である。>
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この辺まで読んできて、何とか理解できていたように思うのだが・・・。
二つのノリがぶつかる狭間から、言語の世界へ
言語の不透明性
道具的/玩具的な言語使用
自分を言語的にバラス
深く勉強するとは、言語偏重の人になることである
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この辺まできたらもう文脈についていけない。理解できない。
そこで、千葉雅也さんという人はどういう人か調べてみた。
1978年12月14日、栃木県生まれの44歳。2019年に『デッドライン』という小説を書いた。第41回野間文芸賞新人賞受賞、これが第162回芥川賞候補、2020年に第33回三島由紀夫賞候補、2021年に『マジックミラー』が第45回川端康成文学賞、2021年に『オーバーヒート』が第165回芥川賞の候補になる。最近は、小説をたくさんかいているんだ。
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『勉強の哲学』をやめて、はじめに小説を読んでみることにする。頭のいいひとの文章はおもしろいのだが、『勉強の哲学』はラカンとかフーコーとか知らないとわからないのかもしれない。それとも、おれがバカすぎるのか?