TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「短歌の友人」を読みながら今日の朝日歌壇を読む

 『短歌の友人』の第2章 口語短歌の現在、まで読んできた。

 <たくさんのおんなのひとのいるなかで
  わたしをみつけてくれてありがとう> 
  (今橋 愛)

 「わたしはこの歌を初めてみたとき、ショックを感じたが、その理由は「うた」としての過剰な棒立ち感にあると思う。」と穂村さんは書いている。

 <症状を用紙に記す「できるだけ詳しく」って、この二行の幅に?>
  (兵庫ユカ)

 「定型意識の共有性や共通資産としての技法といった短歌の「枠組み」を充分理解している作者が、〈私〉の実感を盛り込むための一回性の破調の方にしばし傾く。この意識的な武装解除、或いは棒立ちのポエジーの選択ともいうべき事態に私は驚きを感じる。彼らは自らの実感に対して忠実であるために短歌の素人になっているのだ。」
 このように、穂村さんが解説している。短歌ってやはり、言葉の芸術であるんだとよく解った。一見、何気なく書いているようでいて、(つまり棒立ちにみえても)、かなり意識してつくっているのだ。この意識で自らの、去年の12月からは始めた私の短歌つくりは、初心だからまず、「定型」にこだわるが、自らの生きてきたか経験、老いを感じる現在の状況を踏まえて、それこそ生きるための力になるものを目指すことだろう。その目から今日の「朝日歌壇」を読んでみる。

 <熊谷へ赤城 下風(おろし)のとどくとてマフラー巻きし兜太師在(いま)さず(前橋市 荻原葉月)>← 永田和宏選: 2018年2月に、98歳で亡くなった俳人金子兜太さんは熊谷市に住んでおられた。作者の荻原さん前橋の人だから、赤城おろしを意識したのだろう。この歌を読むのだから、荻原さんは高齢な方かもしれない。先週もは、「雀の日向ぼっこ」の歌が載っていた。

 <魂を込め呼び掛けるメルケルさん「差し控える」とメモ読む首相(西海市 前田一揆)>← 馬場あき子選: 馬場さんが、熱をこめたアピールが熱いメルケル首相と菅首相を対比、と書いている。学術会議の任命拒否問題、安倍晋三元首相の嘘答弁のことか、政治家を読む人が多い。

 <父親を演じし父が痴呆なる老人演ずさう思ひたし盛岡市 小原哲哉)> ←佐佐木幸綱選: 「認知症の父をうたう。うたいにくいところをあえて短歌にした心の冒険に注目」というのが選評だ。このような方向が私のめざしたいところだ。短歌はこころの冒険と知った。

 <三密を避ける術なき鶏舎にて処分されゆく生命(いのち)の数多(横浜市 毛涯明子)>← 高野公彦選: この歌は、鳥インフルエンザのことをうたっている。同じよな視点で詠ったのに次のものがあった。
 <人も豚も鶏もあわせてPCもウイルスに侵され歳暮れむとす山形市 黒沼 智)> という歌を、永田和宏さんが選んでいた。

今週の歌を読んでみると、みんな社会というか世相に目を向けている人が多いと感じた。冒頭に、穂村さんの本からひいた、「棒立ち」の歌はすくない。次の歌は、「直球(棒立ち)の歌だろう。

 <大雪の関越道の立往生わがやの雪も大問題だ上越市 藤田健男)← 佐佐木幸綱選: これは実感を、五七五七七にあてはめただけで本当は面白くもなんともない。これが、選ばれるのなら、素直に実体験を読めばいいのだとおもうのだが・・・。
 実は、昨日、以下の歌を投稿した。
 <斉藤姓(せ)斎藤名(めい)の歌人おり元齋藤のぼくは驚愕(びっくり)>
 短歌の雑誌を借りてきたら、巻頭短歌に斉藤斎藤さんという歌人が載っていた。若い(40代?)方で、かなり今風の実験的な短歌を各人らしい。私はかつて齋藤姓だった。そのことを書いたのだが、ナンセンス短歌に過ぎないだろうな。

 ということで、今週のトップは以下の歌にする。

父親を演じし父が痴呆なる老人演ずさう思ひたし盛岡市 小原哲哉)>