TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

もう一週間が経って『朝日歌壇』を読んだ

 今年になってから『朝日歌壇』から私の秀歌を選んでいる。勝手に読んでコメントを書くのが意外と楽しい。

 「赤貧とコロナの中へ出獄す失うものを持たぬ青空(東京都 十亀弘史)」←高野公彦選: <コメント>この方は、東京の何処かの刑務所に収監されている方のようだ。このあいだも、「出獄の日」を待ち望むこころ揺れを詠っていた。短歌は生きるエネルギーを与え、かつ強靭に生きる手段となるとすれば、この方はどうして何処かで道を間違ったのだろうか?

 「飲み食いと旅することが経済だとはじめて知ったこの一年で(滋賀県 木村泰崇)」←永田和宏選: <コメント>この歌はよくわかるな。GoToトラベルを政府が発した時も、何なのだと思ったが、社会は旅して喰って成り立っているんだ。動物とは「うごくのも」というのはしかり・・・。

 「躩螋(はさみむし)百足(むかで)、蚯蚓(みみず)ら固まりてなかよく冬越す朽木のうろに(蓮田市 斎藤哲哉)」←馬場あき子選: <コメント> 本当にこういうことってあるんだろうあな。生き物のの生きる知恵に驚く。この方は朽木を片付けいていて偶然に見つけたんだろう。それを歌にするのは心があるからだろう。

 「十年前あの日もやはり雪だった今の自分は確かにわたし(大船渡市 富谷英雄)」←佐佐木幸綱: <コメント> 佐々木さんのコメントは以下のようだが、これは東日本大震災のことだろうか?「第一首、東日本大震災からそろそろ十年を迎える。下句「あの日」をじっさいに体験した作者ならではの感慨。」
 私は東日本大震災のことを「あの日」と言っているのではないと思う。誰にも忘れられない「あの日」があり、作者の「あの日」はそういう「あの日」ではないのだろうか?こんなに素直に詠っていいんだね。なんでもないことをさらりと詠っている。「短歌」をつくりたいと構えて力まなくともよいという証左のようだ。
「あきちゃんがむかしあかちゃんだったとき」三歳にも昔のありて(千葉市 角田春美)⇒この歌は、高野公彦さんと永田和宏さんが共選である。着眼点が面白い。三歳時が昔なんて言うんだね。子どもは詩人というが、それを捉えて詠うお母さんが偉い。

 「冬休み明けラテン語の先生の声は今年も低くつやややか(富山市 松田わこ)」⇒高野公彦さんと馬場あき子さんの共選だ。松田さんは常連投稿の作者と思う。

「再びの自粛に書道教室の墨拭き上げて戸締りをする(さいたま市 齋藤紀子)」⇒永田和宏さんと佐佐木幸綱さんの共選だ。この歌は事実をありのままに詠んだだけだ。これも秀歌になるんだね。

「飲み食いと旅することが経済だとはじめて知ったこの一年で(滋賀県 木村泰崇)」
 
上掲の木村さんの歌を私の選ぶトップにすることにした。経済などというと会社の経営のことかと思いきや、飲み食いして電車に乗って旅することが経済活動ということなのだ。

 意識して朝日歌壇を読み始めてから2カ月を経過した。5度ほど投稿もしたが、先週から休んでしまった。なかなか詠めない。ということは、なかなか心の解放ができていないのかもしれない。
 さて、今日の「短歌時評」は、<亡き妻と料理>というテーマで、歌人の松村正直さんが書いていた。引用する。
 「誰に見よとおもふこころや匂いたつ笹がき牛蒡を水にぞはなつ」(島田修三
 「一年の過ぎるはやさやガス台にこよひひとりの秋刀魚をやける」(小池 光)
 「少しだけ酒を振る舞ひ蒸し焼きにしたる浅蜊をひとりいただく」(永田和宏
 島田修三さんは、「40年連れ添った家内をなくした」後の日常を詠んだ歌集『秋隣小曲集』(砂小屋書房)を昨秋だしたという。最近の朝日歌壇は、素朴なうたより世相を切る歌が流行りと思っていたが、このような素朴なうたもありと知った。上に引いた歌人たちは、どなたも70歳まえくらいの方のようだ。
 もう一度、私の日常を、歌の目線で描くことを試みてみたい。「料理」もテーマに入れると楽しくなるかもしれないな。