TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『ラストカムイ』(芦原 伸)を読んで、『森と湖のまつり』(武田泰淳)を書棚から引き出した

 芦原 伸さんの『ラストカムイ』を読んだ。力作である。芦原君は私の学生時代からの友人の一人である。友人と言っても密度を濃く付き合ったのは5~6年くらいのだろう。『ラストカムイ』は小説と云うのでもなく、紀行文といううのでもなく、砂澤ビッキをめぐる物語といえるだろう。

<私が砂澤ビッキとともに札幌で暮らしていたのは、そうした激動の時代時代のことであった。(1966年~69年ころだ。)
 当時ビッキは東京ですでに若手木彫家としてデビューしており、札幌では個展「雑種構成小動物の夜宴展」を開いていた。
 木枯らしが吹き始める初冬のこと、「札幌時計台画廊」でビッキの作品をみたことを覚えている。私はとりわけ現代アートに興味をもっていなかったが、その奇妙なタイトルに魅かれたのだった。 ・・・・・・
 ちなみにこの時、ビッキは三十六歳。民芸作品作りはやめて本格的にアーティストをめざした頃で、旭川から札幌へ出て、宮の森にアトリエを借りて暮らしており、友人が経営するバーの室内装飾などを手がけていた。
 その若手彫刻家が武田泰淳の小説『森と湖のまつり』の主人公のモデルで、戦うアイヌの青年像だった。>
 この頃、つまり1966年~1969年の4年間は、私も札幌で暮らしていた。惜しくも、ビッキの展覧会を私はみていない。芦原伸君は観に行っていたのだ。『森と湖のまつり』の誕生秘話についての件はとても興味深い。

森と湖のまつり』の誕生秘話
 作家の武田泰淳が「世界」に小説『森と湖のまつり』の連載を開始したのは昭和三十(1955)年のことだった。
 「ビッキと美年子さんを、武田泰淳に紹介したのは実はわたしなんですよ」
 澁澤幸子(澁澤龍彦の妹)さんから、当時の意外ないきさつを伺うことができた。
 幸子さんが津田塾大学を卒業して間もない頃、当時のボーイフレンドから「武田泰淳の妻・百合子はぼくの実姉なんだ。都内のお寺に住んでいるから、一緒に訪ねてみないか」と誘われた。・・・・・・・
 「そのうち泰淳さんが『小説の題材を探している』とおっしゃるので、アイヌの青年と結婚した友人がいると話したんです。 すると、泰淳は、「詳しく聞かせて、紹介して」と身を乗り出してきた。
 幸子さんはビッキと美年子に連絡を取り、美年子の叔父が経営していた新宿の「椿」という喫茶店で泰淳と引き合わせた。>

 この辺の件は、まるで小説のようだ。「事実は小説よりも奇なり」ということだろう。『森と湖のまつり』を読みたくなった。本棚の一番上を探したらでてきた。雑誌世界に連載されたものをまとめて単行本『森と湖のまつり』として新潮社から、昭和三十三(1958)年に刊行された。昭和三十三年は、平成天皇の結婚した年だ。件の単本の「あとがき」を読んだら面白い記述があった。
<私は昭和二十一年の秋から、二十二年の春にかけて、北海道大学で講義した。できたての法文学部には、まだ完全な宿舎の設備がなかったなおで、教員集会所のだだっぴろい二階で、運動部の合宿のような生活をした。食料もとぼしかったそのころ、ストーブの火の消えた夜、アイヌ語の講座をうけもっていた知里真志保さんから、お話をうかがうのが楽しみだった。知里さんは、アイヌ研究の開拓者たる金田一先生のお弟子で、朝日賞を獲得した秀才である。「シャモ」とか「和人」とかいうことばの、真の意味も知らなかった私に、知里氏はユウモァと情熱にみちた話術で、飽くことなく語って下さった。しかし、もちろん、当時は,「森と湖のまつり」のような作品を手がけようとは、夢にも思っていなかった。>
 この時から、泰淳さんの中には、アイヌへの関心が芽生えていたのに違いない。そのあと、泰淳さんは、「いよいよ長編の資料集めにかかるときは、まず札幌の道立図書館へ行きました。(北大をやめてもう五年もたっていましたが)そこの研究室で、更科源蔵、河野広道、渡辺茂の諸氏に面会し、ねんごろな手ほどきをうけ、共に不便な山村漁村へ旅行してもらいました。

 このたびに同行した更科源蔵さんはアイヌ語アイヌ文化の研究者だ。更科源蔵さんのお娘さんは、北大露文科の4年くらい私の先輩である。泰淳さんのこのときの取材旅行こそが、『森と湖のまつり』のための取材でアイヌコタンを訪ねたのであろう。
 芦原伸君の『ラストカムイ』は、砂澤ビッキのトーテムを追い求めながら、環太平洋の太古の人類移動(グレートジャーニー)にまで言及し、それを「Jomon-Bering Line」と名付けている。大胆でかつ興味深いみかたであろう。