TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

久しぶりに良い本を読んで思うこと 『わが歩みし精神医学の道』

 良い本を読んだ。『わが歩みし精神医学の道』(内村祐之)を昨日、読み終えた。良い本を読んだ。この本を読みながら、
 「学問の静かに雪の降るは好き」 (中田瑞穂)
 を想い起した。学問に一生を捧げたひとの姿は美しく、私には羨ましく思える。

「年老いて若い日を思い返しているうちに、私も、自分の一生にどんあことがあったか、また、小さいながらどんな仕事をしたかといったことを、わかりやすくまとめてみたいと思うようになった。これを老化現象による回顧趣味と批判されても仕方がない。正にその通りだからである。」

 「まえがき」から以上の文章を引用した。この本は、雑誌「精神医学」に、昭和41年7月号から二十回にわたって連載されたものを纏めたものだ。巻末の「折々の人」は、昭和42年八月、「朝日新聞」に書いたものであるという。昭和41年というと、私の高校三年あるいは浪人生の時で朝日新聞は読んでいなかった。「本書は、なるべく多数の人に読んでもらおうと思って、できるだけ砕けた書き方をした。」と内村さんが書いているように、この本は実に平易にかつ過ぎ越し日々おことを実に素直に書かれている。内村鑑三さんのことも、本書を読んでその人となりがよくわかった。内村鑑三の母、つまり内村祐之さんの祖母が狂死したということもありのままに書かれている。最近、よく耳にする嫌な言葉であるが、「親ガチャ」というのがある。この言に従えば、内村さんは内村鑑三という稀有な人格者の長男として誕生しているから恵まれた「親ガチャ」といえるだろう。本書の感想をのべるよりも、内容の目次建てを再掲して、コメントを付けて記憶と記録にしようと思う。

 「目次」
 1.精神科をまなぶまで
   祖母の発病 父鑑三と精神医学 学生時代 精神科を学ぶ ⇒ 内村鑑三は、米国時代に病院で働いていたことがあり精神医学に関心があった祐之さんが医学を志すと、「魂の医師」の次に「身体の医師」が続くのはよいと賛成してくれたという。
 2.松沢病院の二年間
   当時の学会の状況と松沢病院の雰囲気 石橋婦長のことなど 大震災前後の松沢病院 医局の珍談一、二 北海道大学からの招聘⇒ 東大医学部を卒業して、精神科へ進む。東大の医局から、すぐに松沢病院に移る。医局よりも、給料のでる松沢病院を希望したともかいてある。松沢に移籍して1年半で、北大への招聘を受ける。そして、北大の精神科の助手になり、翌、1925年(大正14年)4月、二年間の欧州留学に旅立っった。つまり、北大に移るが、留学して学問を深めて戻れということだった。
 「父もまた、自らの母校である札幌農学校の後身の北大から、教授候補者として息子が招かれたことを、ひどく喜んだ」とある。
 3.  ミュンヘンでの留学生活
 留学地としてミュンヘンを選ぶ ブロイラーとシュヴァイツァー アンモン角病変の発生機序の研究 両大家お間の大論争 ミュンヘンでの交友録 精神医学と脳病理⇒

 ミュンヘンには2010年に初めて訪れた。ミュンヘンとはドイツでは大都市だろう。他にベルリン、フランクフルト、ハイデルベルグ、くらいしか知らない。
 内村さんがミュンヘンに留学したのも偶然だったらしい。
 <留学先を決めるに当たって、呉秀三先生は、「近ごろ若い人の行かないミュンヘンがよかろう」と勧めてくれた。私も、クレペリン以来、精神医学のメッカとして信じられていた所だし、またスピルマイヤーの新著を、初心者ながらすばらしいものだと思っていたのでーー…進んでミュンヘンに行くことを望んだのだった。>
 そうか、内村さんも望んでミュンヘンに行ったのだ。クレペリンというと、「クレペリン検査」を想い起す。中学か高校生の時に「クレペリン検査」を受けたこがある。たしか、二桁の数字を加算して、下一桁の数字にのみを、記述していくものだったと思う。これで、性格テストになるのだろうか、と疑問に思った。性格と言うよりも、足し算の能力ではないだろうかと思った。
 4.エミール・クレペリンの印象
 クレペリンと私と斎藤茂吉さんと 晩年のクレペリンの面影 「苦行者的狂熱者」 生誕百年記念会の提唱 クレペリンの性格 クレペリンの詩情 禁酒者クレペリン
 内村さんはクレペリンが存命中にミュンヘンに行ったのだが、直接はクレペリンに会っていない。こういう興味深い話が載っていた。
 <・・・茂吉さんがいかにも憮然たる表情で語ったのは、かつて茂吉さんが握手のために差し伸べた手を、クレペリンに冷たく拒否されたという一件である。>
 この話が、後に茂吉の息子さんの北杜夫さんの小説『楡家のひとびと』に出てくるのだという。
 クレペリンフロイトは同年生まれで、1956年が生誕百年だった。
 <・・・・そこで私は、友人であるミュンヘン大学のコレとシュルツ両教授に手紙を書き、クレペリン生誕百年の催しを是非開くべきだと主張した。>
 こうして、1956年2月23、24日の両日、ミュンヘン大学の精神科教室の講堂で記念会が開かれることになり、私も招かれてこれに出席した。>
 なるほど、内村さんとクレペリンの関係は深いのだ。
 5.オスワルド・ブムケとアルフレッド・ホッヘ
 クレペリンの後継者ブムケ 二つの型の精神医学者 ブムケの回想記によるヒトラー ブムケの精神医学 『年輪』の著者アルフレッド・ホッヘ ホッヘの症候学説⇒
 <1922年に、クレペリンミュンヘン大学を退職し、その後、1924年に、オスワルド・ブムケがその後任に決まったと聞いたとき、われわれは実に意外感に打たれた。ここで、われわれと言ったのは、このことについて、林道倫教授と私とが、同じ思いを語りあったことがあるからである。>
 ブムケは、ソ連レーニン、そして、ドイツのヒットラーの診察もしている。
 ホッヘは、ブムケの恩師であり、ドイツ精神医学の異端者であリ、大学を退職後に、自叙伝『年輪』を書いている著名な詩人でもあったのだという。斎藤茂吉が、精神科医としてよりも、歌人として大家となったのを想い起す。
 6.  恩師ワルター・スピルマイヤー
 スピルマイヤーの名前は、クレペリンやベルッほどに、日本では知られてないかもしれない。精神分析フロイトの方がもっと知られている。スピルマイヤーは、内村さんのドイツにおける2年間の留学時代の恩師である。日本の医師は、昭和の初期まではドイツに留学してドイツ医学を日本に伝えた。第二次世界大戦後はアメリカ医学が日本の手本となった。
 <ワルター・スピルマイヤー先生は、留学時代の二年間、私が最も身近で教えを受け、またお世話になった恩師だから、その想い出を書かずに私のがが旧生活を語ることはできない。>
 内村さんは、1925年の初夏にドイツ精神医学研究所にスピルマイヤーをたずねて、留学して2年間を過ごした。

 7.印象に残る人々― E.クレッチマーとC.V.エコノモーと野口英世を中心にして
 <私は、大学卒業後。直ちにクレッチマー出世作たる『体格と性格』を求め、それ以来、彼にひかれて、彼の論著をほとんど欠かさずに読んだ。>
 エコノモーは、偶然の機会から、嗜眠性脳炎を発見して有名になった。エコノモーは飛行機の操縦が趣味であった。
 内村さんは、1927年にドイツからの帰路にアメリカに渡ってロックフェラーに行って野口英世に会っている。

 

(更新予定)