TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

内村祐之「わが歩みし精神医学の道」と親ガチャを考える

 箱根滞在の2日目は、ビジターセンターに車を置いて、周辺の湖尻園地を散策した。芦ノ湖西岸の湖尻水門から深良水門までを40分くらいをかけて歩いた。途中に湖尻峠へ登る道もあったが、Yさんの体力を考えて断念した。3時30分にには今回の宿舎のヴァーク・スイートに戻った。一休みして温泉につかり、件の「わが歩みし精神医学の道」を読み始めた。
 この本は、内村祐之さんの自伝としての回想録なんだとしった。「 Ⅰ 精神医学を選ぶまで」には、「父鑑三と精神医学」という章がある。ここでは、内村鑑三のことが書いていある。内村鑑三は、キリスト教の伝道者として順風満帆の生涯を送った人格者だとばかり思っていた。ところが大違いであると知った。札幌農学校の同期生に、宮部金吾、新渡戸稲造らがいる。彼らが謂わば人格者であるのに対して、内村鑑三は農学校で水産学を修めて、首席で卒業した。しかし、自己主張が強く協調性がなく、他の人と協同していくことができない人だった。そのために母校札幌農学校、後の北海道大学の教授職にはなれなかったというのが真相なんだとしった。内村鑑三は高崎の出である。内村祐之の祖母、すなわち内村鑑三の母親は精神の病で亡くなっている。こういう件がある。
「明治三十七年の秋であるから、私が七歳になろうとしたある日、この祖母が、家の縁先で、ひどくおびえ叫んでいる抵抗するのを、数人の者が、無理に抱きかかえるようにして連れ去ったのを覚えている。祖母は、それから数日あるいは数十日の後に、病院で、六十七年の生涯を終わったが、父は終生、このことについて語らろうとしなかった。その母を精神障害で失った上に、以前から、きざしていた弟妹の反抗が、母の死を機として激しくなり、長兄である父は、「親殺し」の汚名さえ、着なければならなかったからである。」
 このエピソードからもわかるように、内村鑑三は苦い家族関係に生きていたようだ。内村祐之さんが父親について次のようにも書いている。
 「ちなみに、鑑三には三人の弟があり、いずれもすぐれた才能を恵まれていたが、彼らは鑑三と同じく、自我の強い、激昂しやすすく疑い深い感情資質をそなえていたのではないかと思う。」

 今回の標題に、「親ガチャを考える」を付けたのは、やはり生まれた環境と幼い日からの教育の手段を与えられるものは幸いであるとの思いをつい良くした。札幌農学校時代に、内村鑑三はクリスチャンとなったわけであるが、発端は無理矢理にならされたというような経緯だったらしい。内村鑑三は三度の結婚している。三度目の妻との間の長男が内村祐之さんになるのだが、伝道師の収入は余り豊かではなかった。 

 ともあれ、内村祐之さんは独協中学で五年間の学生生活をおくり、若くしてドイツ語に親しんだことが書いてある。裕福ではなくても、恵まれた教育の素地を与えられたのである。このあと、旧制高校の三部を受験することとした。「ここで、医師志望が決定したわけだが、」と書いてあるのは、「三部」とは、医学部コースだったのだろう。内村鑑三は、「魂の医師」の次に「身体の医師」が続くことはいいだろうと賛成してくれた、んだという。

 さて、今回は、内村祐之さんの本の「精神医学を選ぶまで」に触れた。このあと、「松沢病院の二年間」「ミュンヘンでの留学生活」と続いている。これらの感想は追って書きたい。