TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「文体」と「身体」について思うこと

 同じ著者の本を続けて読みたくなることがある。「文体」が「身体」に移って(感染して)くるんだと気が付いた。去年、高橋源一郎というチョットだけ私より若い作家の本を読み始めて、たて続けに何冊か読んだことがる。
 一昨日から、最新の芥川賞受賞作「ブラックボックス」を読んでいる。まだ途中なんだが、語り手で主人公の「サクマの文体」が身体に移ってくる気がする。まるで、自分自身が不安定な契約社員で自転車で配達便を行っている30くらいの若者のような気がしてくる。同時に、村山由佳の『風よあらしよ」を読んでいると、大杉栄がすぐ近くにいる知り合いのように思えてくる。しかし、私とは相いれないタイプの人間なんだなとの思いも強い。この本は文体で読むのではなく、話の流れで読んでいる。大杉よりも、伊藤野枝が主人公の物語で、これはノンフィクションの小説版版であり、もう最後にきた。余り訴えかけてくるものはない。『美は乱調にあり』だったか、同じく伊藤野枝をモデルにした瀬戸内晴美のほうも読んでみたい。
 さらに、併行して、石原慎太郎さんの『老いてこそ生き甲斐』を読んでいる。こちらは、いわばエッセイ集なんだが、石原さんも文体を持っている作家だ。読んでいると、文体が身体に訴えかけてくる。石原さんは、太宰治三島由紀夫も嫌いで、まったく評価をしていない。太宰治のことを、「なんで、女と死ぬようなやつの小説をみんな読むんだ?」という言い方をする。三島の盾の会のことも味噌糞にいう。三島由紀夫の剣道は全く駄目だったとも言っている。多分、あたっていると思う。硬いボデービルで着けた筋肉は、武道にもスポーつにも使えないのは本当のことである。
 今日は、本を読みながら、文体と身体について考えた。日本の短歌や俳句を読むとこころに響くのはそのリズムなのだと気が付いた。文体も同じなんだろう。