『劇的な精神分析入門』北山修)を読み続けているが、ますます訳がわからなくなってきた。もう読むのを断念したほうが良いかもしれない。「分からないことが分かっただけで読み始めた価値がある」と言えるかもししれない。わかったことは、精神分析を行う治療者,つまり医師は、ときに患者と同化してしまっているみたいのようだ。
日本の昔ばなし「つるの恩返し」の話がたとえとしてよく出てくる。
わからないが、この項目の章立てを記述しながら、キーワードを抜き書きする。
1 在と不在
<この在と不在の矛盾をもっと情緒的に捉えるならば、誘っておいて拒否するという<>二重性となるだろう。>
2 矛盾する治療者
(1)構造的矛盾
(2)在り方とし手の矛盾
<さらに平均的な精神科医は、DSM的な診断分類と個別の人間理解の両方を行い、科学者でありながら文学者であるだろう。>
(3)対象としての矛盾
3 治療的ダブルバインド
4 さらに治療者が巻き込まれること
役割をおしつけられる
起承転結という段階論
傷ついたセラピスト
<つまり、セラピスト自身が患者の病気を発病しかけて、その病を克服することで生まれた知恵で治療者が患者に役立つということなのだ。>
⇒上に書いてあることは理解できる。
5 物語は書き換えられるのか?
分析的治療の二重性
傷ついた役者たちのための楽屋を
去っていかない「夕鶴」
<海外で「夕鶴」のことを報告するとき、必ずキリストのことが話題になるが、人類を救うために人類に殺されながら復活する彼こそ「傷ついたヒーラー」の典型だろう。>
6 わかりやすい症例提示
⇒この項の記述を読んだ。「分かり難い症例提示」だと思った。精神分析の方法は本当に大変な仕事だということが分かった。この本を、ここまで読んで(いや、目を通して)きたが、北山さんは、多分、同じことを繰り返して、表現を変えてのべているようだ。糖尿病内科医の石井均さんは、この本の何処に、「糖尿病治療」と関連付けたんだろうか。「精神の病」も「糖尿病」も、治るというよりも抱えて生きるという共通点があるということだろうか?