三日坊主の代表格が「日記」なんだという。それもそうだろう。それなのに私のブログは随分前「ヤフーブログ」から始めて何を隠そう隠してなんかいないが来月8月25日頃にまる5年が経過する。「石の上にも三年と言うがもう少しで五年を迎える。」このかん何か変わったろうか?何も変わらないが大きな病気をしないでほぼ毎日、遡って日付を通して書き体裁を整えてきた時もあるが、書いてきた。
さて、件の日記を「文学」にまで昇華させた作品が平安時代にあったんだ。『土佐日記』である。大人の教科書「国語の時間」 青春出版社 を読み継いだ。今日はかの「土佐日記」だ。
<「男もすなる日記(にき)といふものを、してみむ、とて、するなり」と、『土佐日記』はいきなり作者の決意表明からは始まる。>
これを読むと作者は女に思えるが、どっこい、作者は紀貫之(きのつらゆき)という男なんだ。紀貫之って、「古今和歌集」の撰者のひとりではなかった?そうなんだ。
『土佐日記」って、土佐守であった彼が赴任先の土佐の国から京の都に帰るまでの出来事や感想を日記風に書いたものだったのだ。まだ、読んでないので詳しくはわからんが興味を惹かれる。
<それの年の十二月の、二十日余り一日の日の、戌(いぬ)の刻(とき)に門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。>
これが書きだしの文なんだがなんか少し大げさだね。現代語訳はこうだ。
「ある年の12月21日の午後8時頃に出発する。その時の様子を、少しだけ書いてみる。」
折角、都に帰るのに夜の8時に出るのかね。紀貫之は京の都から四国の土佐くんだりまでとばされていたんだろう。何年振りに京にもどれたんだろう。
12月21日に、土佐の国府から港のある浦戸まで6日間もかけて移動する。ようやく、12月28日から船旅になり、阿波(徳島)の港伝いに進み、年明け2月16日に、58日目にやっと京の都にたどり着いたんだという。帰ったのは五年ぶりで帰ってみると自宅は荒れはててしまっていた。家の管理は隣人に頼んであったんだがちゃんと見ててくれていなかったんだ。
なんか高知出張所から京都の本社にもどってきたサラリーマンの感じだね。
■紀貫之はオカマだった? 女性になりきって執筆した理由は■
それにしても、なんで紀貫之は女性の立場で書かねばならなかったのか?それはこういうことなんだそうだ。
<当時の日記というものは漢字を使い漢文体で書いた備忘録(びぼうろく)という性格のものだった。>
紀貫之は、それまでの備忘録から脱して、周辺に起きたことにも心情を交えながら表現してみたらどうかとおもいついたんだという。とすれば、当時としては、「革命的な表現実験」だった。紀貫之はやせてもかれても土佐守という役人だったから仮名文字で男の自分が書くのは憚られたので「男もすなる」と女のふりをしてかいたんだという。匿名性ということも手伝ってか書かれた内容は伸びやかで自由な筆使いになったんだという。
そんなら、面白うそうだ。『土佐日記』を本格的に読んでみたい。紀貫之は役人としては出世できずに土佐守に赴任したのも60歳を過ぎていたんだって。このパッとしない役人の紀貫之が新しい日記文学を切り開いたんだという。人生は皮肉だね。
このあと、『土佐日記』の影響を受けて、平安時代の日記文学が花開く。『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更科日記』などが有名だね。
<コメント>
「紀貫之はオカマだった?」って、見出しにあるけれど、「オカマ」は差別用語であるのだろうか?放送禁止用語であるのだろうが、LGBTQを尊重する風潮をよしとして歓迎する立場からみて文章での使用はありうるのだと思うのだが・・・。
さて、今日も気になる本を書いておきたい。
(1)『心の正体見たりー教養人に与うる書』(山田純、星和書店、1,980円)
<心とは何なのか。愛、比喩、心と体、感情、幸せについて二時間半で読む、悩める現代人への処方箋。>
著者は精神科医かな?読んでみたい。
(2)『70歳が老化の分かれ道ー自立した晩年をもたらす70代の健康術』(和田秀樹、詩想社、1100円)
「一気に衰えるか、その分岐点は70歳にある」んだって。76歳の私だが読んでみたい。
(3)『70代、腸内細菌と筋肉で老いを超える—新発見の腸筋相関で凄いことが起きる!』(江田証、さくら舎、1760円)
「筋肉量と相関しているのは酪酸菌(腸内細菌)の量。筋肉量を増やして、老いを超える食事と運動を具体的に示す!」って書いてある。この本のことは既に一度触れた。まだ読んでいないので、また書いておく。