TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

合気道の四段審査の日に新聞を読んで— 惜別小阪憲司先生

 酷暑のよき日、所属している合気道道場で四段の審査会が行われた。K. T. M.の三名, いずれも50歳前後の壮年期のものが合格した。合気道の場合は四段が審査を受ける最後の段位である。実質上の最高位の段位であある。三人とも見事な技を披露してくれあ。私が4段位を受理したのは、今から15年くらい前であるが、既に60歳を超えていたので、推薦により四段となった。40歳で合気道を始めたので既に20年が経過していた。それから12年後くらいに五段位も推薦で取得した。以降、稽古を相変わらず続けている。合気道には定年はなく生涯が稽古のとなる。

 帰宅して、朝日新聞(2023年7月22日)夕刊の「惜別」らんに、小阪憲司先生のことがでていた。小阪先生には、最初は雑誌「精神医学」の編集会議で15年くらい(1995年〜2010年)、そして10年くらい(2003年〜2014年)はHさん(義母)を見て頂いたので臨床現場での小阪先生にお世話になった。まさに、穏やかな臨床医そのもであった。認知症になったは義母は、小阪先生にお目にかかるのが大好きになったので、小阪先生がクリニック移動するたびについていく形で受診をしていた。
 小阪先生は、「レビー小体型認知症」の発見者として著名であった。クリニックを訪れると比較的小柄な小阪先生は、穏やかに診察というより面談のような形で義母と接してくれた。医師の娘に生まれた義母は、医師と白衣と病院が好きだったのだろう。
 今回の「惜別」の記事は、寺崎省子さんの署名記事だ。引用しながら、記録と記憶のために記事を纏めておきたい。

 <認知症は三つのタイプが知られ、レビー小体型認知症はその一つ。ありありとした幻視が特徴だ。>

 義母の場合も、リビングのソファーのほうをみて、「そこに子どもが座っている」とか言い出した。それで、認知症と気が付いて、小阪先生メールで相談して、当時、横浜市大教授(精神医学)を定年になり、小阪先生が院長に就任してた横浜市の「ほうゆう病院(記憶なので、あとで確認)」に義母を連れて受診したのが、2003〜2004年頃だった。

 <1976年、世界初となる症例を論文で報告した。精神科医として診ていた患者に、当時の「常識」とは異なる症状に気づき、死後に脳を調べた結果が発見につながった。>
 小阪先生は、この業績で、「朝日賞」を受賞された。その折の新聞記事がどこかに保管してあるので再読してみたい。小阪さんは、金沢大学医学部を卒業して、横浜市大での精神科に勤務されていた。神経病理の研究もされていた。

<「治療法がなく、苦しむ患者とその家族に寄り添う精神科医であり、同時に神経病理学を勉強していた。臨床と病理の両方ができる秀でた医師だったからこそ、見つけられた」。日本老年精神医学会理事長で大阪大学教授(老年精神医学)の池田学さん(63)はそう評価する。>

 <早期に正しく診断できる医師を増やし、適切な治療やケアで患者・家族を支える態勢づくりが急務だと小阪さんは考えた。認知症専門医らによる研究会を発足させ、患者・家族と専門医をつなぐ「サポートネットワーク」を各地で立ちあげた。

<アルツハイマ―型認知症の治療薬(ドネペジル、商品名アリセプト)が、レビー小体型の治療薬として2014年に世界で初めて日本で承認された。承認に向けて10年がかりで尽力したのも小阪さんだったと池田さんは指摘する。>

 義母の場合も、小阪先生からアリセプトとなんとかいう貼り薬(なんとかパッチ)を処方をうけていた。2014年の夏頃に、義母は入所していた介護施設で大腿骨頸部骨折をしてしまい、小阪先生のクリニックを受診できなくなった。その折には、お手紙ん義母の近況を報告しておれにお手紙を認めた。小阪先生ご自身が、2017年12月に、「臨床の現場をさった」と新聞に書いてあった。今から6年前だから、まだ77歳くらいであったろう。先生ご自身が体調不良になっておられたのだろうか?
 小阪さんは、2023年3月16日、入院先の病院で誤嚥性肺炎でお亡くなりにったとのことだ。ご冥福をお祈りするばかりだ。小坂先生お世話になりました。