『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』を読みながら考えた。
今日は、
第4回 詩人としてー詩の言葉とは何か
第5回 小説家の誕生ー独自の文体を作ったもの
上の二章を読んだ。第4回の、「詩の言葉」では、「詩とはわからないけどわかるもの」ということだとわかった。「読んでこころに響いてきゆて分かった気になればいいんだ」と思う。そういうもんだろう。「汚れちっまた悲しみに今日も小雪がふりかかる」(中原中也)だって、「ここに道路の新開せるは」(萩原朔太郎)だって、なんかよくわからないけれど分かって、よんでみるとこころがに響いてきた経験がある。
第5回目の冒頭に、「文体はその人の意志である」と書いてあった。それはそうだろう。ところで、文体はその人の個性であり、あまり意識して作っているのではないのではと思っていたが、そうではなくて「意識してつくっているんだ」としった。はじめて町田康さんの作品「しらふで生きる」だっけを読んだときに、関西弁を交えた「おふざけ調」でありながら強く訴えてくる文体に魅せられた。あの高橋源一郎さんの作品も饒舌な文体に引き込まれた。
町田さんは「文体チェック三つのポイント」というものをあげていた。
(1)一つは:自動的な、オーマチックな言葉遣いになっていないか。
(2)二つは:自分が言語を支配するんじゃなくて、自分こそがむしろ、その言葉によって照らされている景色の一端に繋がること。
(3)三つめは:オリジナリティに拘泥しないこと。(何かを読んで)憑依を恐れない。真似を恐れない。それは、盗作するということではなくて、その人の影響を受けることを恐れない。オリジナルなどという傲慢なことを考えない。
町田さんすごいことをいっているね。町田さんの文体は天性のものでバンドをやったりして関西弁ができたりしてチョット饒舌ながらエレガントなというか洗練された才能を付与されていたひとかと思っていたが、それなりに自分で作ってきたんだとしった。
大いに啓発された。私は毎週、朝日歌壇読んでいても自分では歌が詠めないが、日々の生活を例えば昔の歌人の歌を真似て、57577 に文字をはめ込んでいくことをやればいいのかもしれない。