TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 朝から「朝日歌壇」と「朝日俳壇」を読む ~ すべからく「下実上虚」で姿勢を正す

 朝から何もしない日を一週間にいちどは作った方がいいのではないかと夕べふと思った。六時におきて目ざめて家人をおこさないように静かにこれを書く。

 <訪露してロシアの勝利を信じると言いし日本の国会議員(観音寺市 篠原俊則)>⇒高野公彦撰: 一首目、「なぜそんなことを」と呆れた日本人が多かったのでは? と高野さんのコメントあり。篠原さんは優秀な歌人なのに、なんでこんなくだらなぬ世相揶揄を詠むのか?選ぶ方も選ぶ方だと思う。

 <駅前の更地となりし古書店のはたきの親爺の今をおもへり(観音寺市 篠原俊則)>⇒ 永田和宏撰: 篠原さん、私歌と世相歌を歌い分けているのがわかるが、こちらの私歌のほうが良いと思う。
 <父がいつも母に隠れて吞んでいた酒屋の横のベンチがなくなる(佐世保市 近藤福代)⇒永田和宏撰: 娘は父も母もみているんだね。

<短歌では嘘はついてもいいのよと俵万智氏が楽しく語る(千葉市 甲本照夫)>⇒馬場あき子撰: ふーん、こういう歌もいいんだね。

<包装紙裏にびっしり帰りたいスマホを持たぬ母の入院(東大阪市 大野聖子)>⇒佐々木幸綱撰: 悲しい歌だね。いつか、近く来る日のことか。

<百五十人分のお抹茶を裏ごししました学園祭の前日(奈良市 山添葵)>⇒高野公彦、永田和宏、馬場あき子: 三人の選者が選んでいる。これって、奈良の山添さんのお嬢さん(中学生かな?)の歌なんだ。山添聖子(母)、山添聡介(弟)も歌人だ。お父さんんも挑戦しているが入選しないらしい。今回の歌は学校行事を57577にまとめたもので面白くもなんともない。なんで三人が選ぶのかわからない。爺のひがみだね。

 次に、俳壇に移る。

手のくぼはさびしきところどんぐりよ(彦根市 阿知波裕子)>⇒高山れおな撰: この句にはハッとさせられた。

<名月や顔向け出来ぬ事があり(相模原市 荒井篤)>⇒小林貴子撰:

<流されて行く先知らぬ落ち葉かな(筑紫野市 二宮正弘)>⇒大串章撰:

 意味はわからないんだが、阿知波さんの俳句が新鮮でハッとした。

 歌壇と俳壇のあいだに、「俳句時評」がり、阪西敦子さんが興味深いエッセイ「ふくらみある言語世界」というタイトルで、恩田侑布子さんという評論家を紹介してくれた。
俳人・文芸評論家の恩田侑布子の評論集『星をみる人 日本語、どん底からの反転』(春秋社)には、2013年かあ発表した評論が集められている。取り上げられている作家は、松尾芭蕉から現代の作家まで幅広い。>
 飯田蛇笏が取り上げられている。
 <『死病得て爪うつくしき火桶(ひおけ)かな』は芥川龍之介が感嘆し、この句を剽窃して作ったとする「ろう(病だれの漢字)がいの頬美しや冬帽子」と対比して読み解く。芥川の句が深く被った帽子と頬ほ組み合わせを言ったのみに対して、蛇笏の句では、火鉢に置かれた病人の爪の美しさを見せたその先に、「美しき火桶」のつながりからその爪の置かれた火鉢へも美しさをつらね、「かな」によってその「奥の美」へ導くという、句の中の重層を指摘する。>

 なんか、575という短詩をよむのにすごく深みがあるんだね。『星をみる人 日本語、どん底からの反転』を読んでみたいので書いておいた。

 本日は、合気道の日曜稽古に参加した。肩取り面打ちからの技、胸取りからの各種の技の稽古をした。「上虚下実」「音のしない稽古」を心がけた。こころの明るくなる稽古を心がけた。