TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(1)菊地臣一さんと脊柱管狭窄症

 (1) 私の「医人」たちの肖像― 菊地臣一さんと脊柱管狭窄症

 

  • 2018年9月5日:

 

「この道を泣きつつ我の行きしこと 我がわすれなば たれか知るなむ」 (田中克己

 

   昨日は「脊柱管狭窄症」のことに触れた。私がかつて医学系の出版社で働いていたことを知った友人が自らの脊柱管狭窄症の治療の状況を私に知らせアドバイスを求めてきた返信メールに絡めての話だった。そのメールに私は一つの優れた病院の一つとして福島県立医科大学の整形外科の受診を薦めた。それは在職中に稀有な整形外科である菊地臣一という一人の医師との知遇を得たからだった。

   1990年代の初めころに私は勤務先の出版社で発行している雑誌『臨床整形外科』の編集発行の業務に従事していた。一口に整形外科といっても、腰、脊椎、腰、肩等、身体のいろいろな関節(部位別)あるいは外傷、腫瘍(疾患別)と専門分化が進んでいた。そのため、編集発行に際して全国各地の複数の大学や病院の専門家(医師)に編集委員を委嘱し、時折(ある時は学会時の早朝などに)寸暇を求めて編集会議を開催して編集法方針を決定していた。雑誌には一般読者からの論文投稿も受け付けていた。投稿された論文が掲載に値するかどうかの見極め(査読)も編集委員に委ねていた。何のことはない。出版社の編集に従事といっても私たち雑誌編集部の社員は黒子であり実務要員でもあったのだ。菊地臣一さんとの出会いは私が上記の雑誌に従事して間もないころに脊椎専門領域の専門家の一人として委嘱したのであった。年に数回の編集会議への出席のほかに、毎月、投稿されてきた10篇を超える論文の査読をお願いした。6~7人からなる編集委員の中で菊地さんは一番の若手であった。菊地さんは福島県医大の整形外科教授に就任してから6~7年目の頃で、臨床と研究と教室の運営と多忙を極めていた頃と推察された。それにも拘わらず委嘱した論文査読迅速でかつ何時もコメントは箇条書きにしたワープロ原稿であった。

   冒頭に引いた田中克己の歌は、「私の座右銘」という菊地さんの文章から引いた。菊地さんの父上は柔道整復師(柔整師)の仕事をなさっていたと聞いた。この歌をよめば氏の医学・医療人としての研鑽の程は容易にうかがわれる。

(2018.9.5)

(私の「医人」たちの肖像―〔1〕 菊地臣一さんと脊柱管狭窄症)