TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「エレナ瀬沼郁子」(「ニコライ堂の女性たち 第五章)を読んで思うこと

 『ニコライ堂の女性たち』(中村健之介・中村悦子共著)を読み続けている。この本を読むことは、私の恩師への恩返しと感謝の気持ちが強い。実は今から50年くらい前に私が北海道大学ロシア文学科を卒業するときに拙い卒業論文の指導を受けた恩師が中村さんなのである。中村さんは私よりも7~8歳年長なだけの新任の講師であった。27~28歳くらいで結婚したばかりで、幼い子どもをかかえて、ドストエフスキーに関する研究論文をガリ版で刷って私たちにも配ってくれたのだ。あの時から50年たって、しばらくして中村さんは、ドストエフスキー研究に関して日本の代表者となっていた。尤も、その少し後には亀山さんのドストエフスキーの新訳がでてきたりして、ドストエフスキーのとらえ方も少し変化している。並行して、中村さんは駿河台のニコライ堂で有名なロシア正教のニコライ・カサ―トキンの日記を掘り起こして日本語訳を世に問うた。ニコライの日記をレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)で探しだしたのも、ドストエフスキー研究でモスクワに留学した時ということだ。このことは『ニコライ堂の女性たち』の後書きにも書いてった。

 そこで、エレナ瀬沼郁子だが、私の故郷である群馬県高崎市の生まれである。こんな女性があの田舎町の高崎から出ていたのかと驚いた。漸く読み終えた。
 「なんともはや読後感の悪い印象」を持った。エレナ瀬沼郁子は滅茶苦茶な女性であった。ロシア正教の「正」の字にも相応しくない描きようである。この中村健之介さんの手によるものだが、読んでいて表現が巧みで独特でかつチョット「寸鉄人を切る」ような厳しい見方がなされている。中村さんも瀬沼郁子の振る舞いを追いながら辟易した部分があったのではないかと思われる。いちど婚約者を破棄し、神学校長である瀬沼の求婚を受け入れて神学校長夫人あるのかもとして贅沢な生活を欲しいままにする。尾崎紅葉の弟子になり、夏葉(かよう)の「号」を受ける。ロシアの小説の翻訳も手掛けるが何処までが本人の仕事かは分からない。ロシアの神学校に留学してロシア語が堪能であった夫瀬沼の手になる仕事を夏葉の名前で出しているものもあるようだ。次々と5人の子どもを産むが、6人目の子どもは愛人であるロシア人の医学生東京医科大学アンドレーエフとの不義の子どもである。生後10か月くらいの6人目の娘を背追って帰国したアンドレーエフを遥かサンクトペテルブルグまで追いかけていく。そして、ロシアでアンドレーエフとの結婚が叶わぬと分かると帰ってくる。そして、夫と子どもたちの家に戻ってくる。それを夫の瀬沼も受け入れざるを得ない。なんとも、やるせない不思議な人格の女性である。
 瀬沼の生涯を描く中村健之介さんの筆致にも厳しいものがある。エレナ瀬沼郁子を描くにあたって、中村さんの筆の冴えは多岐にわたる。それは詳細で長い後注に如実に描かれている。膨大なエレナ瀬沼郁子に関する資料を渉猟する中で本文に描き切れない部分を後注として紹介せざるを得なかったのだろう。これらの注を参照しながら読み進めると、文学研究というものも自然科学論文と同様な体裁となるのだと知った。そこが小説との違いと言えるのだろう。
 ところで、7人の女性たちを紹介している「ニコライ堂の女性たちの」の中で、中村健之介さんの書いた三人、すなわちイリナ山下りん、フェオドラ北川波津、エレナ瀬沼郁子の章を読み終えた。この三人の中でもエレナ瀬沼郁子が一番の特異な女性のように思う。「原始女性は太陽であった」の平塚雷鳥にも瀬沼は接触しているが実態は見せかけだけだったようだ。このようなエキセントリックな明治の女性が高崎からでていたと知って驚いた。