TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『短歌は生きるための武器になる』のだろうか?

 木俣 修『短歌の作り方』(改訂版)をてにとって読みはじめた。本棚の上のほうに鎮座しているのは知っていた。何時買ったのだろう。多分、昭和50年頃に手に入れたと思う。発行は明治書院だ。この出版社は国文学関係の出版社だと思う。「味わい方叢書」のなかの一冊である。他に「詩の味わい方」(黒田三郎)、「川端文学の味わい方」「現代文章の味わい方」(共に, 長谷川泉)何という本も出ていた。この本の感想は後日に譲る。

 今日は、朝日新聞の「be」に載っていた「短歌は生きるための武器になる―歌人 穂村 弘さん(58歳)」の記事に惹かれた。穂村さんは2018年5月に、母への挽歌を収めた『水中翼船炎上中』をだして、若山牧水賞を受賞したのだという。若山牧水と言えば「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」という二つの歌を思い起こす。穂村さんの上記の歌集は17年振りに出したもので、1万分も売れたんだという。
 <10代の頃、うまく呼吸ができないような社会とのずれを感じていた。大学で短歌に出会い、「しんどさ」から抜け出す一歩として作り始める。>
 穂村さんは1962年に北海道で生まれた。1981年に北海道大学に入学。1年半で退学し上智大学に入りなおす。1986年、連作「シンジケート」で角川短歌賞次席になる。その時の受賞者が「サラダ記念日」で有名な俵万智さんだ。穂村さんが、大学で短歌に出会ったと言っているのは北大だろうか、上智大だろうか?履歴年譜によると、1981年に北大の文系に入学して退学している。2年後の1983年に上智大学の英文科に入学している。1985年に短歌を作り始めるとなっている。ということは上智で短歌に出会い、翌年の1986年には第32回角川短歌賞次席になっている。かなり順調で早熟なデビューだったようだ。現役で入学した北大でワンダーフォーゲル部に入っていたと書いてた。なんで1年チョットで北大を止めたんだろう。それなのに、「北大のほうがあっていた」なんて言ってるらしい。ともかく、穂村さんは生きることに「しんどさ」を感じていて、そこから歌に出会って生き伸びてきたのだろう。「短歌は生きるための武器になる」というキーワードはそのことを言っているのだと読んだ。
 1990年に歌集『シンジケート』をだすと、批判も浴びたがポップな口語短歌は若手歌人たちに強い影響を与えた。2008年からは、新聞の歌壇で選者を務め、雑誌『ダ・ヴィンチ」で投稿企画「短歌下さい」を開始した。
 穂村さんは、歌人としての仕事をしながら、会社勤めを17年間やり、総務課長までやったのだという。「職場にゲラが届くような状況だったのに、会社をやめるのはすごく怖かった。ところが緑内障になり、すぐに失明すると誤解して、辞める決心がつきました。」
 会社をやめてしまって、穂村さんは若手の歌人として活躍しているのだ。今回の新聞記事にはお顔写真が載っている。若々しい。
 「千年以上、短歌が詠み継がれてきた訳は」という問いに穂村さんはこう答えている。
 <囲碁や将棋の世界の人たちが盤上に宇宙があると感じるように、三十一文字という定型があることで、かえって無限の宇宙を閉じ込めることができるように思います。その瞬間にしか詠めない歌があって、短歌がなかったら、僕の人生もより厳しくなっていた。短歌に封じ込めておけば、何年経っても生き生きと想いを伝えることができる。なので、思いついたらどんどん作ってほしいですね。>

「穂村さんいまごろからもいいですか七十三の歌の始まり」