TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

人はみな大河の一滴

 五木寛之さんの『大河の一滴』を読み進めている。

 この本とは全く関係ないのだが僕はキャッチボールができない少年だった。出来ないというよりやったことが無いのだ。僕が育った田舎の村の小学校に昭和28~29年頃に入学した。その頃は小学校も貧しくて生徒みなが使えるようなグローブはなかった。比較的な裕福な農家の2、3人のこどもは親からグローブを買ってもらい小学校に持って来たりしていた。ソフトボールト言っても重く固いのでグロープがないとキャッチボールは難しかった。グローブを持たない僕はキャッチボールをやらなかったのだ。やることといったら砂場で角力をとるくらいであった。キャッチボールというものは、もしかしたら「言葉のやりとり」にも通ずるコミュニケーションに通ずるのかもしれない。僕が人付き合いが下手でコミュニケーションが苦手なのは、キャッチボールをやってこなかった幼少時のトラウマに起因しているのかもしれなと73歳の今になって気がついた。

 世わたりの拙きことをひそかにも誇りとしたる我にやはあらむ (啄木)
(後世に名を遺す文士は、通俗的なところが無いから、社会生活で認められることが無い。おれが社会人として駄目なのは、文士として才能があるからだと、自負している。)

 上記は有名な石川啄木の歌である。括弧内は、インターネットで調べた。誰かが読み解いた解釈である。「啄木は、「文士として才能があるからと、自負している」となっているが、啄木の歌の意味はもっと謙虚で、「俺は世の中で上手く立ち回ることができない。それはそれで仕方がないんだ。せめては拙い歌を作っているんだ。」くらいの意味だと思う。おそらく、啄木も上手にキャッチボールができる運動神経のよい少年ではなっかのではないか。そう思って、僕は上の啄木の歌を愛唱してきたのだが・・・。

(更新予定)