先日から坂村真民さんの詩集を読んだ。ついで、随筆集を読み始めた。
しばもち
しばもちはおいしい
しばもちはなつかしい
母がいつもつくってくれたしばもち
熊本では「いげん葉だんご」という
田植ごろになると
どこの家でもよくこしらえ
こどもたちをよろこばせた
わたしもあの「山帰来(さんきらい)」の葉を
よくとりにいったものだ
さくらの葉につつんださくらもち
かしわの葉につつんだかしわもち
ささの葉につつんだささもち
ほおの葉につつんだほおもち
そのなかでもしばの葉につつんだ
しばもちが一番なつかしい
今日も
仏さまに供え
母に供え
ふるさとの山を思いうかべながら
妻とたべる
しばもちのにおいよ
<コメント>
この詩の後で真民さんはこう書いている。
「人間というものは、幼いときに親に食べさせてもらったものが、一番なつかしいのである。ことに年をとると郷愁のように、幼いといきに口にしたものがなつかしい。・・・・」
真民さんの詩は祈りのようなものに思える。頭で考えて作るのではなく心から湧きでたものなのだろう。
6月になって私の住んでいる黒川の谷戸地では田植えが終わった。最近では田植えもみんな機械でやっている。私の子どもの頃は牛で田を耕して人間が田圃を滑らかにして人の力で一斉に田植えをした。田圃を耕す時に幼い日の私が牛の鼻づらを引っ張り父が牛にひかせる鋤を手で支えて作業をした。代かきといつた。重労働なので3時間も作業を続けると牛も辛くて涙を流しながら歩いて鋤を引いていた。牛も泣くのである。真民さんを真似して詩を書いた。これって詩だろうか?
むかしの田植えのこと
稲の植えられた田んぼ道をあるくと
幼い日の田植えのことが思い出される
牛の鼻取りは小学生の私の仕事だった
辛くて牛が涙をながしていた
私は泣きはしないでじっと耐えていた
7歳の私も生きるとはそういうことだ知っていた
田植え時になるとつぶらな牛の目を思う
ああ。そんな幼い日もありき
(76歳の6月のよき日に)