平成9年9月18日に義父(TT)がこの世を去った。早いもので今年(平成30年)の9月18日(火)で満21年が経過した。確か三女のRTが高校1年生で友人とディスニーランドに遊びに行っており急いで帰るように連絡した。既に携帯電話(ピッチ簡易電話)を保持していた。3年前(2015年)6月27日に義母(HT)もこの世を去った。次世代の私と妻も齢70歳を越え振り返る過去の方が長い。
本日は妻のYTさんが「川崎・しんゆり芸術祭発アート講座2018」に参加。午前9時過ぎに外出した。一人自宅で私は書斎コーナーの片付けを行った。ファイルを整理していて興味深い新聞コピーを見つけた。
「幻の農場の判明の手がかりとなった日記手帳」のキャプションが付いて見開きの手帖の写真も付いて入る。これは富永家にとって画期的な記事だ。平成3年にはTTさんが存命だったからこの新聞は彼が残したのであろう。
「ファミリーヒストリー」というテレビの番組が面白く観ている。最近では女優の大竹しのぶ、歌手で作家の佐田まさしのファミリーヒストリーがとても興味深く記憶に残る。ここから着想を得てブログに「私のファミリーヒストリー」シリーズを加えることにした。
第1回目は「富永農場 実態が判明 倶知安町史登場へ」の巻。以下に新聞記事の全文再掲する。
「後志支庁倶知安町の「富永農場」が初めて倶知安町史に登場することになった。同農場は、多角的経営農場のパイオニアのひとつ。これまで、実態がわからなかったが、同町教委が開基百年記念開拓資料展開催のため、町民に呼びかけ当時の資料を収集を始めたところ。同農場のを開拓したとする退役軍人の日記手帳が持ち込まれ判明した。富永農場は、広島県人の富永寅次郎(元海軍中佐)が独力で大正四年、同町樺山地区に開いた。
この農場は昭和五年代まで続き、ジャガイモ畑約二百ヘクタール、でんぷん工場と石材業を併営するという当時では珍しい多角経営の大農場だった。しかし、太平洋戦争後二回発行された倶知安町史には、なぜか全く姿を見せなかった。このため、存在を知っていた同町内の郷土史愛好家から「せめて百年史には・・・・」という声が上がっていた。
富永農場発掘のきっかけになったのは、先代が富永農場にかかわりがという同町樺山の農業納田和一さん(五九)から、入植当時の寅次郎の日記手帳経営の収支を示す判取帳など数十点が持ち込まれ、同町教委の矢吹俊男学芸委員(三九)らが整理を進めるうち、富永農場の存在がはっきりした。
その富永農場は、百年記念史で新設する「大正時代の農業近代化」の項で、「多角的経営農場のパイオニア」として初めて姿を見せる。」
<付記>