TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(13)日野原重明さん⑥武見太郎さんと対談「科学・哲学・医学」~1981年10月

(13)日野原重明さん⑥武見太郎さんと対談「科学・哲学・医学」~1981年10月

 

 1982(昭和57)年の医学界新聞の新年第1号は、「日野原重明・武見太郎対談」とデスク会議で決まった。当時の編集室の陣容は、TS室長以下SH君、KI君と私の4名だった。
■医師会のドンを招いた■
198110月:
 この企画は、既にベテラン編集者の域にあったSH君の提案だった。対談収録は1981年10月末か11月の初めだった。当時の手帖にメモの記載が、残念なことにないので記憶から書き起こす。
 武見太郎さんは、既にそのころ日本医師会長を二十四年間に亘って務めていた。日本医師会館は、その当時、JR御茶ノ水駅から水道橋方向に歩いて三分位の古色蒼然とした線路際の路の対面に立つビル内にあった。武見医師会長に御登場願うので、日本医師会館から近い御茶ノ水の「山の上ホテル」に、収録会場を設定した。対談開始時間を夕刻18時に決めた。下準備に余裕をみて、私たちスタッフは17時前に現地に到着した。すると間もなく、日野原さんが、一時間も前に到着した。通例の会議なら、多忙なゆえに到着は開始直前が、普通だった。日野原さんが、珍しく心持ち緊張しているようにもみえた。
■対談「科学・哲学・医学」■
 
武見太郎医師会長が間もなく到着した。物静かな小柄なお年寄りが入って来た。余りの変貌に驚いた。厚生省との交渉にも一歩も引かない豪胆な姿勢と猪首の風貌から、『喧嘩太郎』とか『医師会のドン』と、武見さんは、そのころ言われていた。間近にお目にかかると、武見さんは物静かな学究の徒の風貌であった。
 武見太郎会長は、1981年4月1日開催の第62回日本医師会定例代議員会で、退陣を表明していた。その理由が体調不良であった。収録前の雑談の折に、「酵素(enzyme)」関係の海外雑誌を購読されていると話されていた。
 対談のテーマは「科学・哲学・医学」。この日の対談記録は、1982年1月4日付の医学界新聞・新春第1号(第1479号)の年頭を飾った。
■日野原さんの記憶に残る対談■
 
上記の武見対談について、日野原さんの興味深いコメントを見つけた(医学界新聞・第3000号、2008年10月29日付)。
 「私もまだ若いねぇ。日本医師会長の武見太郎先生に対して,私は聖路加国際病院の内科医でした。おまけに聖路加の院長だった橋本寛敏先生は日本病院協会(現・日本病院会)の会長を務めた方で,病院協会と医師会は対立関係にありました。でもどういうわけか、私は武見太郎先生にはとても可愛がってもらった記憶があります。」
(2018.10.12)  


(私の「医人」たちの肖像―〔13〕日野原重明さん⑥と武見太郎さんと対談「科学・哲学・医学」~1981年10月)