座頭市の子守唄
佐伯 了
今も奥さんのことを<珠緒ちゃん>と呼ぶのだと、何かで読んで
ぼくはとても可笑しくて嬉しくなった
その頃であった
ぼくの二人の姉と一人の兄が同じ秋に結婚し
上の姉は式もあげずに十五歳の咲代子の義母となり
それから五カ月
兄上がもうパパになりましたと妹のような下の姉が知らせてきた
ぼくはとても可笑しくて嬉しくなって
その夜お酒を三合飲みました
それは、ぼくたち兄弟の孤独であった父の
脚絆を巻いた在りし日の
古い日記帳の中の生殖の夢の続きのような
明かるい絶望の日であった
<珠緒ちゃん>に惚れこんじまった時、珠緒ちゃんの父上が
芸もなく二晩泣き明かしたのだという
その頃であった
ぼくは舗道を歩きながら、そんな些細なことを考えていて
停止している車の開いたドアにぶちあたり
額を割ってしまったのだ
ぼくはとれも可笑しくて嬉しくなって
まるで恋する少年のようなのだ
それは、気が短くて力の強い僕たち兄弟の父の
血を一番強く引いているというぼくの
新しい日記帳の中の生殖の夢の続きのような
ほの暗い微かな希望の日であった
(1970年5月)