TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「私のC型肝炎物語」第2章:晴天の霹靂: あなたはC型肝炎ウイルスHCV)のキャリアです!― (2)東大病院小俣内科を選んだ!

(2)「私C型肝炎物語」第2章:晴天の霹靂:あなたはC型肝炎ウイルスHCV)のキャリアです!―東大病院小俣内科を選んだ!

 

 1998年8月11日に東京逓信病院で受けた人間ドッグで、私はC型肝炎ウイルスのキャリアであることが判明した。医師から専門医への受診を勧められた。忙しさにかまけて数カ月はそのままにしていた。

 ■どこの病院がよいか?―迷う!■

 ●1998年8~11月

 東京逓信病院にするか、会社に近い東大病院にするかと、受診先の選定に迷っていた。C型肝炎と言うと、東大病院第2内科の小俣政男教授を直ぐに思い起こした。千葉大学医学部出身である小俣教授は、米国留学中における肝炎研究の業績が評価され、東大教授に推挙された方と聞いていた。小俣教授による大著『肝臓』(上下2巻本)が、私の勤務先I書院から出版されていた。さらに、『内科学』教科書の刊行を目指して、同じく東大医学部神経内科の金沢一郎教授、消化器内科の小俣政男教授らが編集を進めていた。小俣さんとは仕事上の関係も深かった。前職である医学界新聞の記者時代に小俣教授の講演を拝聴したこともあった。小俣さんの飾らない人柄に好印象を持っていた。このような経緯から専門医への受診先として、東大病院(小俣教授)を選択した。

 ■小俣教授を初めて受診■

  • 1998年12月1日(火):

 1998年12月1日(火):午前10時~11時の間に東大病院消化器内科を受診した。初診なので少し余裕をもって午前9時30分に病院受付へ行った。東京逓信病院での人間ドッグの結果を持って行ったので、初診料は免除されたと思う。東大病院予約センターで登録した私の受診カード番号は「061-6713-4」である。赤松先生という若いドクターが、小俣教授の診察前に予診をとった。「手掌紅斑」が出ていないかを調べるために掌平を見せたのを覚えている。

1998年12月1日から、こうして東大病院小俣内科での治療が始まった。この日から2018年現在まで、延々20年余に東大病院通いが及ぶとは夢にも思わなかった。この時期の記憶を呼び起こすために、1998年12月頃の日常生活を遡って少し記述したい。

 ■超のつく多忙な日常■

  午後から休暇をとった。夜は新宿駅ビルのレストラン『プチモンド』で妻Y子と会食した。滅多にないことだった。

 12月5日(土)~6日(日):
 
湯河原の白壁荘に、「熱海シンポジウム」のために宿泊した。これは勤務先のI書院医学雑誌部の元課長たちの懇親会で、私はこの時が初参加であった。東京駅からJR踊り子173号で、幹事さんの用意した駅弁を食べながら行った。翌朝は新幹線のこだま412号で東京に急ぎ戻ってきた。午前中、東京駅ビル「ホテル国際観光」で、学会誌「糖尿病」の編集会議に参加予定があったからだ。

 12月7日(月)
 午後には山形大学医学部の荻野教授(整形外科)に対して、担当していた医学雑誌「臨床整形外科」の編集委員への就任委嘱をするために山形市へ出張した。午後14時過ぎに教授室訪問の約束だったので、15分くらい早めに山形大学病院に到着して廊下で待機していた。

 12月8日(火)
 午後15時に慶応大学戸山教授(整形外科)に対して、同雑誌の編集委員へ就任委嘱に慶応病院を訪問した。この時に慶応大学の矢部教授(整形外科)の後任として、「手の外科」が専門の荻野先生、「脊椎外科」が専門の戸山先生のお二人に、新たに編集委員に参画頂いたのだ。

 12月15日(火)
   午後18~20時30分まで、I書院協力会兼忘年会が東京・湯島のホテル「ガーデンパレス」であった。出席の前に東京医科歯科大学病院に、入院中のHO部長をお見舞いした。O氏は蜂窩織炎の治療に使用した薬の副作用からから腎臓疾患を併発し、その後で人工透析が必要となった。O氏は私と同じくC型肝炎ウイルスキャリアであり、原疾患として糖尿病を持っていた。私の経過と重なる病歴であった。

 12月19日(土)~20日(日)
 「山の会」の忘年会が泊りであり、妻のY子と一緒に参加した。忘年登山は丹沢の桧洞丸であった。宿泊は中川温泉なので、以前に家族で宿泊経験のあった私の妻Y子が幹事役を務めていた。

 12月21日(月)
 午後13時30分から第2回「オンラインジャーナル会議」が会社であった。オンラインジャーナルとは、紙(冊子)の医学雑誌を電子媒体で流通させることであり、その頃「オンライン」という言葉で表現していた。紙媒体の医学雑誌が電子化される過渡期であった。

 ■二つ目の『晴天の霹靂』■

  • 1999年2月末:

   丁度そのころ私の上司のHO部長が病に倒れた。翌1999年2月末にO部長の後任として私が次長に就任した。「なんとか後をお願いしたい」と頼み込まれた。私の勤務する出版社では管理職よりも現場の編集者を選択する人が多々いた。それが許される風土が、世間一般の会社と違ってあった。暫く固辞していたが、これも運命と思って甘受した。C型肝炎ウイルス抗体陽性の判明に加えて昇進も、二つながら私にとって『晴天の霹靂』であった。私はここで音を上げる訳にはいかなかった。次女が大学3年、三女が高校2年という教育費が嵩む時期であった。青息吐息の毎日が続いた。ここから多忙な10数年間を私は生き延びた。却って内なるHCVが私に慎重な生活を齎したのかもしれない。

 (2018. 10. 13)

(「私のC型肝炎物語」第2章:晴天の霹靂:あなたはC型肝炎ウイルスHCV)のキャリアです!―〔2〕東大病院小俣内科を選んだ!)