TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像 ―(20)多田富雄さんと第5回国際免疫学会議・京都 ~1983年8月21日(日)―24日(水)

(20)多田富雄さんと第5回国際免疫学会議・京都 ~1983年8月21日(日)~24日(水)

 

第5回国際免疫学会議が、山村雄一会長(大阪大学教授・第3内科)、多田富雄事務局長(東京大学教授・免疫学)のもとで、1983年8月21(日)~24日(水)、京都市の国際会議場で開かれた。
■座談会「第5回国際免疫学会議への招待」
●1983年8月21日(日):
 この国際会議に向けて先輩記者のSHさんが並々ならない力を入れて広報の準備をした。医学界新聞では会議に先立って、「第5回国際免疫学会議への招待」という座談会を、山村雄一(阪大教授・会長)、花岡正男(京大教授・免疫学)、多田富雄(東大教授・免疫学)、岸本忠三(阪大教授 細胞工学センター・免疫学)の陣容で開催して、大々的に事前に掲載した(第1552号)。
 学会取材のため、1983年8月21日(日)~24日(木)、京都に出張した。京都第2タワーホテルに宿泊して学会場所に日参した。この折の取材内容は、第5回国際免疫学会議開催として、医学界新聞(第1568号)で大きく紹介した。エイズ(AIDS)が日本社会に大きく紹介されたのが、この国際免疫学会議のセッションの中だった。
 以下に、エイズのセッションの様子を紹介しておきたい。
■急遽トピックスとなったエイズ
 第5回国際免疫学会議における大きなトッピクスは、エイズ(AIDS)が日本における医学関連の会議で大々的に取り上げられる先駆けとなったことであろう。当時、エイズが英語でAIDS(Acquired Immunodeficiency Syndrome)の略語(頭辞語)であることすら知られていなかった。学会の折にもAIDSを初めは、「エイ・アイ・デイ・エス」と発音していた。「エイズ」という言葉が日本の新聞やテレビを初めとしたマスコミに再三登場するようになったのは、京都市の国際会議場で開催された、この国際免疫学会議以降であったと思う。学会のプログラムに予定されていたAIDSセッションは小さく扱われ、予定会場も小部屋が割り当てられていた。しかし、学会当日までにエイズは大きなテーマに変貌していた。会議場の部屋が急遽大きなものに変更された。それでもエイズ会議場は、押すな押すなの盛況となった。会議参加者に加えてマスコミもたくさん取材に押し寄せて会議場は文字通り立錐の余地なしとなった。この折の取材内容を、私たちは、医学界新聞・第1568号(1983年10月3日付)に大きな紙面を割いて紹介した。

 

ワークショップ″AIDS″原因から診断・治療まで■
●1983年8月23日(火):

 ワークショップ“Acquired Immunodeficiency syndrome”が、8月23日(火)の午後に開かれた。ポスターセッション会場も、急遽大会場が割当てられ、25演題の講演が行なわれた。どの会場もごった返し一種異常な雰囲気ですらあった。この折の取材に基づき、医学界新聞では「世界初の大規模な会議―カタストロフ的状況の打破めざし」の見出しを付けて紹介した。
 ワークショップの座長は、S. Zolla-Pazner女史(VA病院 ニューヨーク大学)とT.J. Spira(アトランタ CDC)の両氏が務めた。この時点では、エイズは原因も不明であり、「今のところ原因も有効な治療法も知られていなのだから過去のカタストロフ的疾病のミニチュアを人が喚起するのも肯ける」と、座長としてのイントロで、Paznerが述べたのも尤もだった。
 エイズの原因に関しては、成人T細胞白血病(ATL:Adult T-cell Leukemia)の原因ウイルスであるATLV(HTLV)との関連が有望視されていた。CDCの代表として発表したSpiraは、輸血とAIDSの関連に言及していたが、それも確たるものではなかった。
 ワークショップ後に記者会見が設定された。AIDSフィバー振りを反映し、マスコミ各社の記者100人以上が参集し、座長のPazner、Spira両氏が、記者の質問に応じた。

 

Pazner:ウイルスが原因であろうとするのが一般的見解だが確定的なことは言えない。候補としてはサイトメガロウイルス、エプスタイン・バーウイルス、アデノウイルスHTLV(or ATLV)の四ウイルスが挙げられるが、複数のウイルス感染も考えられる。

Spira:特定の物質がAIDSの原因なのか、免疫欠損による結果なのかよくわかっていない。

記者会見においてもAIDSの原因・治療について確定的な答えは全く出されず、未だ群盲像を撫でる式の研究段階であることを露呈していた。しかし実際は1983年8月時点で、フランスのパスツール研と米国のNIH等を中心に、AIDSウイルス発見に至る研究の鍔迫り合いが進行していたのだった。
■Immunology is forever!■
 会場の京都国際会議場の庭園山際に “Immunology is forever”という文字が、閉会式のアトラクションとして、仕掛け花火で掲げられた。
 会期中の夜には、事務局長の多田富雄さんと一緒に、学会出席の先生方に同行して、私たちも京都・祇園お茶屋さんを初めて訪れた。本来なら一見の若輩記者の私たちには、果たせない稀有な体験だった。このような国際会議の取材においても臆せず取り仕切る先輩(実は年下)SH君の力量に、私は感心した。
 この学会の折が、多田富雄さんとの初めての出会いであった。医学者というよりも、粘着質な物語をする稀有な「哲人」との印象を多田さんに対して、私は持った。実際、多田さんの経歴をみると、詩を書く文学青年そのものであり、能に造詣が深く舞台で小鼓を自ら打ち、新作能をも手がける人であった。多田さんの『免疫の意味論』は文学に近いのではないだろうか。
 多田さんの新作能「無明の井」を、神楽坂の能楽堂で同僚のSHくんと鑑賞する機会を数年後にもった。この新作能は、「脳死と臓器移植」をテーマとしたものだった。
■障害者となった多田さんの苦悩■
●2001年5月2日:

 多田さんが出張先の金沢で脳梗塞のために倒れられたのは、2001年5月2日のことだ。右半身仮性球麻痺の後遺症で構音障害、嚥下障害で苦しみながら懸命にリハビリに励み、数年後に日本の医療システムの不備を指摘して、日本の医療体制側と一患者として闘う多田さんの姿を私はみてきた。
 『石牟礼道子多田富雄 言霊(ことだま)(藤原書店)』という本がいま手元にあり