TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(103)小野克彦さんと「エイズウイルス(HIV)発見の光と影―HIV発見の優先権をめぐる問題に迫る」 ~1991年11月18日

(103)小野克彦さんと「エイズウイルス(HIV)発見の光と影―HIV発見の優先権をめぐる問題に迫る」~1991年11月18日

 

 医学界新聞の担当に1981年から携わった私は、1983年8月、京都で開催された「第5回国際免疫学会議」で表舞台にでてきた新しい病「エイズ」とAIDSウイルス(HIV)に遭遇した。
エイズの出現が私の医学記者スタートと重なる■
 
京都で第5回国際免疫学会議が開かれた翌1984年9月、仙台市で開かれた「第6回国際ウイルス会議」、同年11月の高松宮妃第15回国際シンポジウム「ヒトリンパ腫・白血病に関する国際シンポジウム」等を初めとして、日本で開催されるエイズ関連学会、研究会等を可能な限り取材して、記事にしてきた。
エイズウイルス(HIV)発見論争が決着■
1991年5月30日:
 
1991年5月30日。米国・癌研究所(NCI)の ギャロ(Robert Gallo)博士が、自らの研究室で発見・分離したと主張していたエイズウイルス(HTLV-3)は、実はフランスのパスツール研究所で分離されたエイズウイルス(HIV-Lai)株と同じものだと認めた。この画期的なニュースを知った私は「エイズウイルス発見の光と影」のようなテーマで、ここに至るまでのエイズウイルス発見の経緯を解説して頂けないかと、日沼頼夫先生(京都大学・ウイルス研究所、当時は塩野義医科学研究所長)に電話で相談した。その結果として、「そのテーマなら小野君が適任です」と紹介されたのが小野克彦先生であった。
エイズウイルス(HIV)発見の光と影―HIV発見の優先権をめぐる問題に迫る■
1991年11月18日:
 1991年11月5の午後~翌6日の15時頃まで、港区・新橋の大日本法令印刷へ、医学界新聞・第1970号の出張校正のため、同僚のKI君と二人で行った。第1970号(1991年11月18日付)の2~3面に、小野克彦先生(愛知がんセンター研究所・ウイルス部)に、「エイズウイルス(HIV)発見の光と影―HIV発見の優先権をめぐる問題に迫る」という論文を執筆いただいた。小野克彦さんから頂いた手書きの二十数枚のお原稿は文字通り玉稿であった。論文は以下のような5本柱で要を得て簡潔に纏められていた。 
HIVを最初に発見したのは仏・米いずれか、

② 米国で発見されたHTLV-3 はLAVとおなじものか?

HIV第一発見論争の再燃から科学的決着まで、

④ NIH再調査委員会リポート、

⑤ 事件の根底にあるものと今後の問題。
 小野先生から頂いた上記の解説論文はエイズウイルス発見の背景の纏めとして実に相応しいものだった。
■優れたウイルス学者でジャーナリストの素養を保持■
 インターネット検索した履歴によると小野克彦さんは、1933年生まれ、1962年京都大学医学部卒。1967年から愛知県がんセンターウイルス部勤務。腫瘍ウイルスの生化学、分子生物学専攻とある。小野さんは優れた科学翻訳家でもある。上記の原稿を頂戴した時に、小野さんは既に米国のジョン・クルードソン(John Crewdson)による“The Great AIDS Quest”を『エイズ疑惑―「世紀の大発見」の内幕』(紀伊国屋書店、1991年7月刊)を翻訳出版されていた。不覚にもこの本の存在を見落としていた私は臆面もなく原稿依頼を差し上げたのかもしれない。最近になって、同じく小野さんが翻訳された2冊の本を見つけて読んだ。スウェーデンの腫瘍学のジョージ・クライン(George Klein)が書いた『神のいない聖都―ある科学者の回想』及び『ピエタ―死をめぐる随想』(共に紀伊国屋書店刊)である。この著者ジョージ・クラインさんにも、たしか高松宮妃癌研究基金の会議で来日した折に、お目にかかった記憶がある。小野さんとの直接の面識はその後も残念ながらなかった。しかし、私の「医人」たちの肖像として忘れられない一人である。
(2019.5.28)

(私の「医人」たちの肖像―〔103〕小野克彦さんと「エイズウイルス(HIV)発見の光と影―HIV発見の優先権をめぐる問題に迫る」~1991年11月18日)