TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

感応と残心!

  合気道の稽古で大事なのは相手との感応と残心であると思う。合気道の稽古を始めて32年になるが未だ道は半ばに至っていない。 気配りという言葉がある。これは自分の周りの人のことを慮ることであろう。ひと(他人)とひと(自分)の繋がりが上手く行くような配慮と言い換えることができる。残心 は文字通り心を相手に残すことである。ひとつの技がおわっても終わるのではなく心は繋がったままである。合気道には試合がなく形稽古のみをおこなう。試合がないのは終わることは繋がりが切れること即ち死を意味する。繋がりを切らずに心を残すのである。相手に攻撃をさせないで自らもいたずらに攻撃するのではなく回避することも技のひとつである。そ意味で合気道は究極の武道である。
 このような合気道を稽古している私はまた残心を欠いた。ぼんくらで間抜けだ。物をよく落とす。定期券やサイフや手袋マフラーまでを落としたことは数知れない。きくばり、残心に欠けるからである。つい最近、所用で3月12日に小田急線で新宿に出た。西口のヨドバシカメラで腕時計を修理して支払いをしようとしたら財布がない。電車の中で落としたか掏られたのかもしれないと判断した。昨夜のうちに1万1千円、カードはOXカード一枚、身分証明のために運転免許証をいれた。そして財布をリュックサックの内ポケットにいれたはずだ。出かける時は慌ただしくて確認を怠った。仕方がないので、スマホカバーに挿入してあったauカードで支払いを済ませ急場を凌いだ。所用を済ませて帰宅して、昨夜、外出に備えて財布の中身を入れ替えしたリビングルームのソファーの上も下も隈なく探した。見つからない。やはり落としたのにだろうと諦めた。翌日、電話でカードの紛失届けと停止をした。交番と小田急線駅にも紛失届けを出した。免許証の再交付も時間を見つけて3日後の3月15日に二俣川まで出向いて行った。労力と心労も大きく自らの不注意と残心のなさに慚愧の思いで苦しんだ。ところがである。本日、令和元年五月五日、私の財布がリビングのソファーの下から出てきた。この一月半のあいだ隠れていた。物忘れは認知症の前兆かと心は安らかでない。ともあれ、残心そして確認の大切さを再認識した出来事だ。外出時には所持品と戸締り確認が必須だ。老いとはこのようなことなのだろうか?