TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

<鳥取の「野の花診療所」院長 徳永進さん>という記事を読んだ

 「死を目前にしたとき何思う」という大きなタイトルの記事が、朝日新聞朝刊(2022年5月5日)の生活欄に載っていた。<鳥取の「野の花診療所」院長 徳永進さん>を取材して、木元健ニさんという記者が構成した記事だ。「患者の手を握る徳永 院長」というキャプションのついた、徳永さんの写真も載っていた。みると、徳永さんは、禿げあがった爺さんではないか。徳永さん、74歳なんだ。なんだ、私より一歳若いだけだった。シリーズ・ブログ<私の「医人」たちの肖像での一つで、菊地博さんと「大和臨床懇話会」を取り上げた時に、同会で講演された徳永進さんを紹介した。大和臨床懇話会が開かれたのは、1993年1月10日(日)の午後だった。徳永さんは、この時には鳥取赤十字病院・内科部長だった。今から三十年もことだった。この時のテーマは、「人間の生と死を考える」というものだった。

 <山陰・鳥取の「野の花診療所」。末期がんといった治癒の見込みがなくなった患者が暮し。2,3日に一度、他界する。院長は、鳥取赤十字病院の内科医だった徳永進(74)。今も男性の夏の訪問が忘れられない。>

 ここで、紹介する木元さんの記事の冒頭を引用した。なんと、男性が訪れてきたのは、末期がんで夫から逃れて入院している女性で、「離婚することが希望」ということだった。「あいつの心が安らぐなら、離婚届けを出してやりましょう」と言って、その男性は、「離婚届けに署名した。」んだという。

野の花診療所には、いくつもの工夫が凝らされている。バーカウンターがあり、お酒もたしなめる。寝そべっては入れる風呂もあり、冬場はゆず湯も。めい想室もある。ポストもある。患者が旅たちを前に、残された人に向けてしたためる「未来便」を納めるのだ。・・・・>

 「野の花診療所」は、既に20年の歴史があるんだという。私が、徳永さんの講演を聞いた1993年の10年後くらいに、「野の花診療所」を開いて、徳永さんはズーっと人の死に付き合ってきた。そのような医師の道を選んで進んできたのだ。
 <寄り添う。徳永は、終末期医療でよく聞かれる、この言葉が好きになれないという。>
 <「死ぬのってつらいだろうな、そのときにそばにいる仕事がしたい、という、根っからの気持ちですね」>

 徳永さんは、京都大学の医学部生時代に、同志社大学の友人に紛れ込んで鶴見俊輔さんの講義に触れた。
 <「家族は親しい他人」
 あるとき鶴見さんが、こういったんだと言う。家族も他人で、親しいけれど、全然違う人格がある、と。>

 鶴見さんの言葉から、どうして徳永さんが、死にゆく人の傍にいる仕事に進んだのか、もう一つ分からないが、大きなキッカケとなったのだろう。
 <『終わっていく力』が人には備わっている。生き方と同じように、それぞれに死に方がある」

 徳永さんは、「”右往左往量”、日本一のジイサン臨床医を目指してきました」だという。

 徳永さん、すごい臨床医として生きて来たんだと再認識した。