TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

SH君に死なれてしまったーよき人は去れり

 少年時代(中学生)から青年時代(学生時代)を過ぎて社会人としての初期(成人初期)を共に過ごした友人たちが次々と亡くなっていく。中学時代のTM、学生時代のKS, RH君も去った。合気道の仲間のSS君は20年くらい前に去った。昨年の12月20日に学生時代からの友人RB君が去った。今年になって、9月に恩師KNさんが亡くなり、そして11月に一緒に仕事をしたというより私の医学記者の手ほどきをしてくれたSH君が幽冥境を異にした。
 昨日の新聞の訃報欄に文芸評論家樋口覚さんの逝去の知らせが出ていた。既に、11月24日に肺炎で死去と出ていた。樋口さんは、1948年1月20日生まれなので満74歳だった。
 <1994年に「一九四六年の大岡昇平」で平林たい子文学賞、1997年に「三玄(いとへん)の誘惑」で三島由紀夫賞、2005年年に「書物合戦」で芸術選推奨文部科学大臣賞。>
 上記が訃報記事に載っていた。小さな記事だが、彼はもっと多彩な仕事をしたので」著書ももっと多い。ウキペディアには詳しく書いてあるが、初期のことは医学書院で編集者としてはたらきながら歌人としてスタート、後に文芸評論に転じたと書いてあった。彼は1972年に、私より遅れて、1948年4月に医学書院に入社した。1972年から1984年まで、12年間にわたり医学界新聞(医学書院発行の週刊新聞)の編集に従事していた。1981年6月に、私が医学界新聞に配属されたので、1981年~1984年5月まで、3年余一緒に仕事をしたことになる。一緒に仕事をしたというより、彼の背中をみて取材方法、インタビューのやり方、諸々を真似して私は医学・医療の記者として成長することができた。
 1981年8月に京都で開催された国際免疫学会議を彼と一緒に取材したことが大きな経験だった。その頃、彼は医学界新聞で「脳をデザインする」というシリーズ連載の編集担当をしていた。一貫して、脳と神経、精神医学領域に関心を持っていた。つまるところ、「人間とはなにか」という科学と文学における共通の命題に関心くを持ち続けていたことになる。脳と神経に続いて免疫学にも強い興味を抱き、関連する書籍の企画編集も行った。訃報欄の履歴には、当然ながら彼が優れた医学編集者であったことの記載はないが、ほんとうは文芸評論に劣らず優れた編集者であった。このことは、もっと詳細に記述しておきたい気持ちもする。私が、別途シリーズブログで紹介している<私の「医人」たちの肖像>で取り上げた、右脳と左脳のガザ二ガ、エイズウイル研究のロバート・ギャロ、臨床腫瘍学の和田達雄(札幌医大学長)等は、彼と一緒の仕事であった。
 「樋口君、ほんとうにお世話になりました。今のわたしがあるのは君のお陰です。」