インターフェロンの発見者が長野泰一という日本人だということは世界で認められているのだろうか?わからない。長野泰一の名前は知っている。いま読んでいる山内保がインフルエンザウイルスの発見者だということは国際的には認知されてはいないのだろう。
<知られざる医学者 山内保とは誰か。黄金期のパスツール研究所に連なる病原体の狩人たちの研究のドラマ。>
これが本書の表紙の宣伝文句である。その通りの面白さだ。メチニコフはロシア人である。
<エリ・メチニコフは1845年5月16日、退役軍人の父とユダヤ系の知性的で美しい母と野中流家庭で、五番目で最後の子どもとして生まれた。メチニコフの姓は、17世紀にピョートル大帝の家庭教師で、中国大使をつとめたモルダビア系の父方の祖先のなめに由来する。>
1845年といえば、私が生まれた1947年より102年前に過ぎない。「17世紀にピョートル大帝の家庭教師・・・」だなんて、そんなルーツが本当に分かっているんだとしたら名門の生まれとなる。母がユダヤ系としてもメチニコフもユダヤ系というのとは違うだろう。
面白い記述(コラム)を見つけた。「日本と強い絆をもった次兄のレフ・メチニコフ」というものだ。日本に来ていたメチニコフはお兄さんだったbのだ。
<メチニコフの7歳年上の兄、レフ・メチニコフは明治の初めの日本と強いつながりがあった。革命家として活躍していた彼は、(19世紀の帝政ロシアで革命家とはどういうことか?)1871年、パリ・コミューンが勃発すると急遽パリに行き救援活動に奔走したが、コミューンは短期間で敗北した。その時、極東で起こった革命、明治維新のニュースに接し、日本に強い興味を抱いた。すでにヨーロッパ13カ国の言語に通じていた彼は、ジュネーブで日本語を教えて貰える人を探し、1872年、偶然、大山巌(後に陸軍元帥)に出会い、彼から日本語を教えてもらい、レフがフランス語を教えることになった。大山は、ヨーロッパの軍隊制度を調査しながら日本の大学で教鞭をとれる人材を探していた。そこで、ジュネーブを訪れた大久保利通、つづいて木戸孝いんにレフを紹介した。木戸とは五時間も日本語で話をしていたという。最後に岩倉使節団が訪れ数カ月滞在した。その間、日本語での会話や文通を通じて、意見を交換した結果、彼は日本に招聘されることになった、
1874年(明治7年)、レフは東京外語大学のロシア語教師として赴任した。体調がすぐれなかったため、二年弱の勤務に終わったが、彼は日本を愛し、1881年に『日本帝国』という700ページを超すフランス語の大著を書き上げていた なお、メチニコフの長兄は、トルストイの小説『イワン・イリッチの死』で、ふとした不注意な事故が元で病気になり、身内や知人からも精神的に見捨てられ、孤独と苦痛の中で寂しくしんでいく高級官吏イワンのモデルになった人物である。>
あまりに興味深いのでコラムを全文引用した。メチニコフが書いた『近代医学の建設者』(宮村定男訳、岩波文庫、1968)も手に入るので後で読んでみたい。また、引用したコラムにある『イワンイリッチの死』のモデルがメチニコフの長兄だなんってまるで小説のようだ。晩年のトルストイは死をテーマにして多くを書いた。『イワンイリイチの死』は昨年読み返したばかりだった。「俺の人生は詰まらなかったと絶望に苛まれて死にいたろうとするイリイチは突然に光の渦に囲まれて至福を感じながら死んでいくのではなかったろうか?
<付記>
返却期限がきたので大急ぎで『インフルエンザウイルスを発見した日本人』山内一也)を読了した。本書は、タイトルにある山内保のことは書ききれていない。山内保さんが留学したパスツール研究所、そこで出会ったメチニコフのことのほうが詳しい。最後に、「山内保事件」という項目が興味深い。山内さんは晩年は渋谷で内科開業医として、糖尿病や動脈硬化症を専門にしていた。
<1932(昭和7)年9月20日の国民新聞夕刊に、「学良の阿片を種に山内医学博士の怪行動」と言いう記事が掲載された。っそれによれば、山内は満州事変(1931年)と上海事変(1932年)の際に帳学良の金庫から押収された阿片の払い下げを受け、前陸軍大臣の南次郎とともに奉天に阿片専売会社を設立すると称して資金を募っていた。・・・・> 奇妙な詐欺事件に連座していたのだ。字直な研究者は晩節を汚したのだろうか?「インフルエンザの発見」は山内保によるものとして世界的に認知されてはいないのだろう。