TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

2024年5月29日(水)の記録のために ~義姉の告別式に出席した~上野三碑のこと他

 「座頭市のこもりうた」(私の「温故知新」)という詩を書いた。昭和44年(1969)に兄が結婚したのだった。同じ年に、長姉と次姉と兄の三人が相次いで結婚した。昭和41(1966)年に北大に入学した私は札幌に住んでいた。同じ年に相次いで兄姉が結婚したので結婚しに出席しなかった。当時は、札幌から群馬県まで帰省するのは時間も経費も大変だったのだ。長姉の場合は相手が子連れの再婚であったので結婚式を上げなかった。兄の結婚しきにも参加しなかった。兄はその頃に初めて自家用車(中古車)を購入した自動車販売会社の社長の口利きで紹介され結婚に至っと聞いた。次姉は共立女子大学(短大二部)を出て教員資格を取得するために教育実習を行った母校(入野中学)で指導教官となった国語教師と結婚したのだった。これも何れも「縁は異なもの味なもの」という気がする。

 兄弟の誰の結婚式にも出席しなかった私はその時の気持ちを「座頭市の子守歌」という「詩」として書いた。この「詩」はどこにも発表していないので私の記憶の中のままだ。

 「座頭市の子守歌」

 座頭市勝新太郎

 ・・‥

 (覚えていないなあ、あとで補充する)

 

 昭和44年(1969)年に兄と結婚した姉が2024年6月26日(日)に亡くなった。誕生日が9月だというので満80歳であった。私よりも3歳年長であったのだ。ご冥福をお祈りする。姉と兄が結婚して私の実家は兄家族が跡継ぎの形で推移してきた。私の父はどのような人であったのか?兄嫁のK子さんはどのように暮らしてきたのか?わからない。私にはいまも父が分からないのだ。私は逃げだしてきたのだから何も言えない。

 今回の葬儀にも、家の改修工事の最中という理由で参加を一度は断念したりした。もしかしたら、兄弟の四人が一堂に会するのは最後だというので参加した、結果としては良かった。おそらく、兄弟の誰が先にいってもおかしくもない状況になった。

ユネスコ「世界の記憶」上野三碑(こうずけさんぴ)■

 朝7時48分のはるひ野発に乗って高崎を目指した。小田急線の遅れと私の判断ミスで大宮駅に着くのが遅れた。新宿から大宮へは、湘南新宿ライン埼京線より早いらしい。ただ、埼京線で赤羽で快速に乗り換えるとそのまま高崎行きのアーバンラインに乗れると早く高崎に行ける。この辺りの判別ができない。結局、判断ミスで予定した湘南新宿ライン高崎行きに乗れなかった。そこで、9時28分発の新幹線あさま505号に乗って9時51分には高崎に着いた。高崎駅の構内の売りが「上野三碑」であった。

 群馬県は、かつて上野国B(こうずけのくに)と呼ばれていた。高崎市山名町と吉井町にある「山上の碑」、「多胡碑」、「金井沢碑」の三つの石碑のことを「上野三碑」と呼ぶ。
 上野三碑がつくられたのは、政府が新しい国づくりのための政治のしくみを整えていた時代と重なる。当時の歴史を経時的に見てみる。

 593年 聖徳太子が摂政になる。百済から仏像・経典が送られる。
 604年 十七状の憲法が定められる
 607年 小野妹子が隋に派遣される
 630年 第一回の遣唐使を送る
 645年 大化の改新: 唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家を目的としたもの。
 663年 白村江の戦い(なにこれ?)
 672年 壬申の乱: 天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇帝・大海皇子(後の天武天皇)が兵を挙げた。反乱者である大海皇子が勝利する。
 681年 山上碑がつくられる。
 701年 大宝律令: 文武天皇の時代(大宝元年)に制定された。律は刑法、令は行政法・訴訟法・民法・商法などを包含し,あわせて国家統治の根本法典となった。
 710年 都を奈良(平城京)に移す
 711年頃 多胡碑が建てられる
 726年 金井沢の碑が建てられる
 741年 全国に国分寺を付く命令が出される
 743年 墾田永年私財法
 752年 東大寺の大仏の開眼式が行われる

 784年 都を京都(長岡京)に移す
 794年 都を京都(平安京)に移す

続く