TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『閑(かん)のある生き方(中野孝次、新潮社、2003年)を読んだので書いておく ~自分の今を肯定して日々を生きる「それでいいのだ」

 本日は「東京肝臓友の会」で働いてきた。朝7時50分に家を出て帰宅したのは18時30分であった。まるまる一日が過ぎていった。パソコンの会計ソフトの打ち込み、封筒ラベル張り、銀行ATMでお金を下ろし郵便局で税金を支払う仕事をしてきた。何れも作業という仕事だ。ヴォランティアというものだがもう辞してもいいと思っている。昨年の10月から始めて身に着けて役にたつ経験もした。患者会という組織で全国の肝疾患に悩む患者の電話相談に応じている。こいう組織の存在と役割について知った。

 帰宅して、『閑(かん)のある生き方(中野孝次、新潮社、2003年)を読み継いだ。飛ばし読みをした部分もあるが同感する個所もあった。中野孝次といえば『清貧の思想』(文春文庫)が評判になった方だ。たしかバブルで世の中が浮かれている時代にもっと質素に静かに生きるがよいという主張が『清貧の思想』ではなかったろうか?読んだ気もするがわからない。

 『閑(かん)のある生き方』は中野さんが年の離れた甥の龍太郎君(40歳くらいの働き盛り)に「老年の生き方」、つまり己の人生訓を語るスタイルで書いている。

 中野さんの年来の友人の一人に詩人の加島祥造がいて、中野さんはこの加島さんの生き方を何度も紹介している。たぶん横浜国大の教授を定年を待たずに投げだして伊那谷に引っ越して一人で(とはいえ若い女性を賄にやとって)暮していたひとだ。晩年に何かを雑誌「文藝春秋」に寄稿していたのを読んで共感した記憶がある。あるいは老年になってから若い女性と再婚をしたのかしなかったのか女性にもてたひとだったような気がする。加島さんおことはともかくとして、中野さんは『閑(かん)のある生き方(中野孝次、新潮社、2003年)のかで40歳代の甥に向かって「老年というのはそんなに悲惨な時代ではないんだよ」と繰り返し言っている。

 <龍太郎君、そのために僕は君に、四十代、五十代の今から、自分の養いのための読書の習慣をつけておけとすすめる。>

 中野さんは古本屋で鈴木大拙全集(全30巻、3万円)を買って全部読んだという。道元から大拙大拙から唐代禅語録へ、そこからドイツの神秘主義エックハルトやアンゲレス・シレジウスへ、さらにローマ帝政期の哲人、セネカエピクテートスへと、芋づる式に精神の系譜を開けてきたのが、僕の六十代、七十代の読書だったんだって。

 『車輪の下』で有名なあのヘッセが『人は成熟するにつれて若くなる」(岡田朝雄訳、草思社)でいいことを言っている。

<老いたら、身体能力の減退も、肉体の衰えも、すべてそういうことをすべてあるがままに認め、受け入れ、こうていしなければいけない。自分の今を肯定して日々を生きる、これができなければーーヘッセはそこを品位ある代表者として最も大事なことで、安心とか悟りとかいうのはこの境地に達することだ、と僕は思う。その点では若いも老いているも全く変わらないのだ。この境地に達した人が救われた人なのだ。

 中野さんはこの境地に達した人なのか。キケロセネカも「今が大事」といっているという。過去も未来も今がなければなかったしないのだ。全てが「今」に始まる。

 中野さんが頻繁に引用している西行良寛も、セネカキケロも、「閑」のある生活をしていたひとなのだと知った。私に足りていなのは、今の自己を肯定して生きるということであるとしった。バカボンのパパの言った、「それでいいのだ」と自分に言うのだ。